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奥州藤原氏:安倍・清原・藤原の血が清衡ひとりに集まるまで

陸奥の奥六郡を押さえた安倍氏、出羽の山北三郡を押さえた清原氏、そして京から下った藤原氏。十一世紀の東北で戦った三つの家の血は、最後に藤原清衡というひとりの男へ流れ込んだ。平泉に百年続いた奥州藤原氏は、勝った家の子ではなく、負けた家の子が二度生き延びて始まっている。図を二つに分けてあるのは、この二つの家がひとりの女性でつながっていたからである。

奥六郡の安倍氏

安倍頼時は陸奥の奥六郡を握った俘囚長である。俘囚とは朝廷に従った蝦夷のことで、安倍氏はその長として胆沢から北を支配した。国司へ納めるべきものを出さず、衣川の関から南へも勢力を伸ばしたことが、朝廷との衝突になる。

婿になった京下りの武士

藤原経清は亘理を本拠にした在庁官人で、藤原秀郷の流れを引く。京から下って土地に根づいた家であり、朝廷の側と在地の側の、どちらにも足を掛けていた。その経清が安倍頼時の娘を妻に迎える。生まれたのが清衡である。図の左、安倍の枝から下へ伸びている一本がそれにあたる。

前九年の役

一〇五一年、陸奥守として下った源頼義と安倍氏が争い始める。前九年の役である。経清ははじめ国司方にいたが、途中で妻の実家である安倍方へ移った。婿である以上、どちらに付くかは血縁が決めた。

戦は十二年に及び、頼義は出羽の清原武則を味方に引き入れて勝つ。一〇六二年、安倍貞任は討たれ、弟の宗任は降って流された。経清は捕らえられ、鈍い刀で首を斬られたと伝えられる。裏切った者への見せしめである。このとき清衡は七歳ほどであった。父を殺され、母方の家も滅びている。

母がもう一度嫁ぐ

清衡が生き延びたのは、母が勝った側へ嫁ぎ直したからである。安倍頼時の娘は清原武則の子武貞の妻となり、清衡を連れて出羽へ移った。清衡は敵将の継子として育つ。

やがて母と武貞のあいだに家衡が生まれた。清衡と家衡は母を同じくする異父の兄弟である。武貞には別の妻との子真衡もいた。ひとつの家の中に、血の由来が三通りある子が並んだことになる。図の右の枝で真衡と家衡が横に並んでいるのが、そこである。

後三年の役

一〇八三年、清原の家督を継いだ真衡と、清衡・家衡が争う。真衡が陣中で急死したあとは、争いが清衡と家衡のあいだへ移った。陸奥守として下っていた源義家は清衡に付き、一〇八七年、金沢柵で家衡は滅びる。

朝廷はこれを私戦とみなし、義家に恩賞を出さなかった。義家は自分の財で東国の武士に報いている。源氏が東国で人を集める土台は、このときにできた。

血がひとりに集まる

家衡が死んだ時点で、安倍の血を引く者も、清原の家督を継ぐ者も、清衡ひとりになった。清衡は父方の姓である藤原に戻り、奥六郡と山北三郡の両方を継ぐ。

三つの家のどれも、清衡を跡継ぎにするつもりで婚姻を結んだわけではない。父が処刑され、母が再婚し、兄弟が争って死んだ結果として、三つの血が一点に集まった。系図の上では、これほど筋の通った相続もない。

藤原に戻すということ

清衡は清原の家督を継ぎながら、姓は父方の藤原に戻した。清原を名のり続ければ、異父の弟を殺して家を奪った男になる。藤原を名のれば、父を殺された子が父の家を再興したことになる。

同じ相続でも、どの家の跡継ぎとして名のるかで意味が変わる。血の来歴のうちどれを表に出すかは、選べるものだった。清衡は三つの家の血を持っていたので、選ぶ幅がそれだけ広かったことになる。

平泉の百年

清衡は平泉へ居を移し、中尊寺を建てた。基衡が毛越寺、秀衡が無量光院を継いで建てている。金と馬を京へ送り、陸奥守の任命にも口を利く力を持った。奥州は朝廷の外ではなく、朝廷と取引をする場所になっていた。

中尊寺の落慶で読ませた願文には、敵味方の区別なく死者を弔う趣旨が記されている。前九年と後三年で死んだ者のうち、多くは清衡の親類だった。父も、継父も、異父の弟も、その戦で死んでいる。供養すべき相手と自分の系図が、ほとんど重なる人だった。

一一八七年、秀衡は源義経をかくまったまま没する。跡を継いだ泰衡は源頼朝の圧力に屈して義経を討ったが、それでも一一八九年に攻められて滅びた。異母兄の国衡も同じ年に討たれている。清衡から数えて四代、ちょうど百年である。

図の読み方

この図で見るべきは縦の線ではなく、右の枝から左の枝へ渡ったひとりの女性である。前九年で負けた家の娘が、勝った家へ嫁ぎ直した。それだけで、滅ぼされた側の血が次の百年の主になった。

家を残すのは当主の武力だと考えられがちだが、実際に線をつないだのは、名を残していないこの女性である。婚姻は、戦の勝ち負けをあとから書き換えることがある。