徳川の将軍は十五代続いたが、家康の直系の男子だけで続いたわけではない。宗家に世継ぎが絶えるたび、あらかじめ作っておいた分家から迎えている。御三家と御三卿はそのための備えだった。図で下へ長く伸びているのが、三男の秀忠の線ではなく十男の頼宣の線であることに、その事情が出ている。
家康は晩年の子である義直・頼宣・頼房に、尾張・紀伊・水戸を与えた。これが御三家である。宗家に継ぐ者がいなくなったとき、ここから迎える。
分家に領地と家格を与えて備えとする発想は、足利の一門と同じである。違うのは、足利が分家に守護として国を任せたのに対し、徳川は分家を将軍の候補として置いた点にある。政務は任せず、血だけを預けた。任せなかったぶん、分家が力を持って本家に対抗する事態も起きにくい。
断絶は思ったより早く来た。三代家光の子で将軍になったのは家綱と綱吉である。家綱に子がなく、弟の綱吉が継いだ。その綱吉にも継ぐ男子がなく、兄の綱重の子の家宣が入る。家宣の子の家継は幼くして没し、秀忠の男系はここで尽きた。
一七一六年、紀州藩主の吉宗が八代将軍として迎えられる。家康の曽孫の子にあたり、家継から見れば遠い親戚である。図の右側が長いのは、この一点のためである。御三家という備えは、置かれてから百年後に実際に働いた。
吉宗はさらに備えを足した。子の宗武に田安、宗尹に一橋を、孫の重好に清水を名乗らせ、江戸城内に屋敷を与える。これが御三卿である。
御三家と違って領地を治める藩ではない。将軍家の身内として江戸に置き、必要なときに宗家や大名家へ人を出す。血の予備を、より手近な場所に置いたことになる。実際、十一代の家斉は一橋家から出ている。図で一橋宗尹の下に治済、家斉と続いているのがその線である。
実際に将軍を出したのは紀州だけである。尾張家からは一人も出ていない。水戸家からは慶喜が出ているが、一橋家へ養子に入ってからのことで、水戸家として出したわけではない。
水戸家には、当主が江戸に定住して参勤交代をしないという決まりがあった。副将軍と俗に呼ばれるのはそのためで、光圀が大日本史の編纂を始めたのも、この立場と関わりがある。将軍を出さない代わりに、別の役目を負った家といえる。
三つ用意した備えのうち、使われたのは一つだった。備えは使われないことのほうが多い。それでも三つ置いたことが、一七一六年に効いた。
江戸の武家は、当主に男子がなければ養子を迎えて家を継がせた。御三家も御三卿も例外ではなく、田安家や一橋家には当主が不在の時期もある。
家が続くとは、血が続くことではなく、名と家格と所領が続くことである。血が途切れても養子で名を継げば、家としては存続する。図の縦の線は血の線だが、実際の継承には、この図に描けない養子の線が何本も走っている。
この形は日本の権力の中で何度も現れる。皇室には世襲親王家があり、実際に閑院宮の系統から光格天皇が出た。足利は分家を各地に置き、鎌倉公方を東国に置いた。徳川の御三家と御三卿も同じ発想である。
いずれも、本家の男子が絶えるという事態を織り込んでいる。一人の男子に賭けず、複数の枝を養っておく。系図を保険として設計する考え方といえる。
ただし予備の枝は、備えであると同時に対抗馬でもある。誰を迎えるかで争いが起きれば、備えがそのまま火種になる。
幕末の将軍継嗣問題がそれで、紀州の慶福と一橋の慶喜が争った。どちらも御三家と御三卿の備えから出た候補である。備えを二系統も用意しておいたことが、選ぶときの対立を生んだ。
吉宗が将軍になれたのは、家康の子孫だと系図で示せたからである。血の近さでいえば、家継との距離はかなり遠い。それでも御三家という枠に入っていれば資格がある。
継体天皇が応神天皇の五世孫として迎えられたのと、考え方は同じである。違うのは、徳川が枠をあらかじめ作っておいた点にある。誰が継げるかを事後にさかのぼって探すのではなく、事前に候補の家を決めておく。系図を使った継承の、より進んだ形といえる。
家康が三人の子に領地を与えた判断は、百年後と二百年後の断絶を先回りして押さえたことになる。図の横幅は、その先回りの幅である。
北条氏は主君の家が絶えたあと、京から別の家の主君を迎えた。徳川は自分の家の中に候補を用意しておいた。どちらも本家が絶えることを前提にした設計だが、外から迎えるか、内に抱えておくかで形が違う。内に抱えれば血は保てるが、候補どうしが争う。外から迎えれば争いは減るが、血は他人のものになる。徳川が選んだのは前者で、その代償が幕末の継嗣問題だった。