ムガル帝国には、長子が継ぐという決まりがなかった。父が死ぬか動けなくなれば、息子たちが軍を率いて争う。勝った一人が帝位につき、負けた者は殺される。玉座か棺か、という言い方が残っている。一六五八年の争いは、そのなかで最も大きなものであった。
ムガル帝国は一五二六年、ティムールの子孫バーブルがパーニーパットでデリーのスルタンを破って始めた。母方からはチンギス・カンの血も引いており、ムガルという呼び名はモンゴルに由来する。
子のフマーユーンは一度国を失って逃れ、取り戻した。その子アクバルが帝国の形を作った。ヒンドゥーの諸侯を軍と行政に取り込み、ラージプートの王女を妃に迎え、宗教の議論の場を宮廷に設けた。異なる信仰の者を敵に回さないという方針である。
ジャハーンギールを経て、五代目がシャー・ジャハーンである。
シャー・ジャハーンの妃ムムターズ・マハルは、十四人目の子を産んだあと一六三一年に没した。アグラのヤムナー河畔に建てられた白大理石の廟がタージ・マハルである。二十年余りをかけて造られた。
この夫婦の子のうち、成人した男子が四人、女子も四人いた。全員が同じ母から生まれている。妃が複数いる家では兄弟が母方で分かれるのがふつうだが、この争いはそうではなかった。同じ両親の子どうしの争いである。
長男ダーラー・シコーは父に最も愛され、都に留め置かれた。学問を好み、ウパニシャッドをペルシア語に訳させ、イスラムとヒンドゥーの教えは根で同じだと論じた。アクバルの路線を継ぐ人であった。
次男シャー・シュジャーはベンガルの総督、三男アウラングゼーブはデカンの総督、四男ムラード・バフシュはグジャラートの総督として、それぞれ任地で軍を握った。都で守られた長男と、地方で兵を動かしてきた弟たち。この差が結末を決めた。
姉妹も分かれた。長女ジャハーナーラーはダーラーを、次女ラウシャナーラーはアウラングゼーブを支えた。ラウシャナーラーは都の動きを弟へ知らせていたと伝えられる。
一六五七年、シャー・ジャハーンが重い病に倒れた。四人が同時に動く。アウラングゼーブはムラードと手を組み、一六五八年、サムーガルの戦いでダーラーの軍を破った。
アウラングゼーブはアグラ城を押さえ、回復した父をそのまま城に幽閉した。シャー・ジャハーンは八年後に没するまで、この城で暮らした。窓からタージ・マハルが見えたと伝えられる。自分が建てた妻の廟を眺めて、子に囚われたまま死んだことになる。
敗れた兄弟の末路は早かった。ダーラーは捕らえられ、一六五九年に処刑された。ムラードは同盟の相手だったにもかかわらず幽閉され、一六六一年に殺された。シュジャーはアラカンへ逃げ、そこで消息を絶っている。
アウラングゼーブは四十九年在位した。厳格なスンナ派として、非イスラム教徒への人頭税を復活させ、寺院を壊し、宮廷から音楽を退けた。アクバルとダーラーが目指した道とは逆である。
領土は最大になった。デカンの諸国を併せ、インド亜大陸のほぼ全域を支配した。だが晩年の二十数年はマラーターとの戦いに費やされ、財政も軍も疲れた。皇帝は遠征先で八十八歳で没している。
アウラングゼーブが死ぬと、その息子たちがまた争った。以後の皇帝は短命で、地方の総督は事実上独立していく。十八世紀の半ばには、帝国はデリー周辺だけを治める存在になった。
継承の決まりを持たない家は、代替わりのたびに内戦をする。強い皇帝が続くあいだは、それが強い者を選ぶ仕組みとして働いた。だが一度の争いで有能な兄弟が全員消えるという代償もある。一六五八年に殺された三人のなかに、別のインドを作れた人がいたかもしれない。
この家の系図は、五代のあいだ一本の線で下りてきて、六代目で横に大きく広がり、そこで四本のうち三本が切れる。同じ両親から生まれた四人が争ったので、母方の家門で説明することもできない。
分けたのは血ではなく、任地であった。都に置かれた子と、地方へ出された子。父の愛情を得た者が兵を得られず、遠ざけられた者が軍を得た。ムガル帝国の帝位は、家系図の位置ではなく、地図の上の位置で決まったことになる。
継承の決まりを持たない家が兄弟を殺すのは、ムガル帝国だけの話ではない。同じころのオスマン帝国も同じ道を通り、そちらは幽閉という答えに切り替えた。ムガル帝国は最後まで切り替えなかった。
違いは、皇子をどこに置いたかである。オスマン家は皇子を宮廷に留め、ムガル家は総督として地方に出した。地方に出せば統治を学び、軍を率いる経験も積む。有能な皇帝が育つが、その皇子は兵も持っている。
どちらの制度にも代価があった。ムガル帝国は代替わりごとに有能な兄弟を失い、オスマン帝国は経験のない皇帝を得た。