奈良時代のなかばに、藤原氏の一人が太師、つまり太政大臣にまで昇った。藤原仲麻呂である。恵美押勝の名も与えられ、自分の姓を新しく作らせた。しかしその地位を支えていたのは、実務の能力よりも一本の血縁だった。図でいえば、左の枝から右の枝へ渡る線である。その線が切れた年に、彼は敗死する。
光明皇后は藤原不比等の娘で、母は県犬養三千代である。臣下の家から出た最初の皇后だった。聖武天皇との間に生まれた基王は一歳で死に、残ったのは娘の阿倍内親王、のちの孝謙天皇である。
仲麻呂は不比等の子である武智麻呂の次男だから、光明皇后の甥にあたる。孝謙とは、母方をたどればいとこである。図の左上から右下へ目を移すと、この二本の距離がわかる。
七四九年、聖武が譲位して孝謙が立つと、光明皇后のために紫微中台という役所が置かれた。仲麻呂がその長官になる。
名目は皇太后の家政を扱う役所だが、実際には政務の中心になった。制度の外に新しい役所を作り、そこへ実権を移す。摂政や関白がのちに使う手を、藤原氏はこの時点ですでに使っている。
仲麻呂は制度の整備でも実績を残した。養老律令を施行し、官職の名を唐風に改め、農民の負担を軽くする措置も出している。血縁だけで昇ったと言われがちだが、任された仕事はきちんとこなす人だった。だからこそ、後ろ盾を失ったときの落差が大きい。
七五六年に聖武が死に、遺言で道祖王が皇太子とされた。仲麻呂はこれを廃させ、かわりに淳仁天皇を立てる。舎人親王の子で、天武の孫にあたる。
淳仁は即位の前、仲麻呂の邸に住んでいた。仲麻呂は早く死んだ子である真従の未亡人を淳仁に娶せてもいる。将来の天皇を自分の家に置き、家の女を配して身内にする。娘を入れるかわりに、亡くなった子の妻を回した形である。
七六〇年、光明皇太后が死んだ。仲麻呂の権力を支えていた血縁の一方が、ここで消える。
残ったのは、いとこである孝謙上皇との関係だけだった。ところが孝謙は病を癒した僧の道鏡を近づけ、淳仁と対立していく。仲麻呂は淳仁を立てた側なので、上皇と自然に敵対する位置に立った。
七六四年、仲麻呂は兵を動かそうとして先手を打たれ、近江へ逃れる途中で討たれた。子の訓儒麻呂らも死んでいる。淳仁は廃されて淡路へ流され、孝謙が重祚して称徳天皇になった。
血縁で昇った者は、その血縁が生きているあいだしか強くない。叔母が死んだ四年後に、家ごと消えた計算になる。
称徳のもとで道鏡は太政大臣禅師、次いで法王になった。七六九年、道鏡を皇位に就ければ天下は安らかになるという宇佐八幡の神託が奏上される。
和気清麻呂が改めて確かめに行き、皇位には必ず皇緒を立てよという託宣を持ち帰った。清麻呂は流されたが、道鏡の即位は実現していない。血のつながらない者が皇位に就くことは、この時点でも認められなかった。
称徳には子がない。仲麻呂を倒したあと、彼女は誰も皇太子に立てなかった。天武の血を引く男子はまだいたが、そのどれも選ばなかったことになる。道鏡の一件は、選ぶべき血がありながら選ばずに、血の外へ出ようとした唯一の場面である。
七七〇年に称徳が死ぬと、道鏡は下野へ追われた。次に立てられたのは六十二歳の光仁天皇で、天智天皇の孫である。天武の血で続いてきた皇統が、ここで天智の側へ戻った。
選んだのは藤原百川ら、仲麻呂とは別の家の藤原氏である。南家が倒れたあと、式家と北家が同じ位置に入り直した。
図の左の枝は藤原、右の枝は皇室だが、光明皇后のところで一度つながっている。仲麻呂の力はすべて、この一点から流れてきた。
血縁は、持っているだけでは何もしない。相手が生きていて、その相手が力を持っているあいだだけ効く。系図の線は消えないが、線が運ぶものは片方が死んだ日に止まる。
藤原氏がこのあと外戚として長く続いたのは、天皇に娘を入れ続けたからである。仲麻呂が頼ったのは、自分の家から出た娘ではなく、父の代に入った娘だった。一代前の縁で立っている者は、その縁が切れたときに補いようがない。
北家が最後に残ったのは、代ごとに新しい娘を入れ直したためである。同じ外戚でも、線を引き直し続けた家だけが二百年もった。仲麻呂の失敗は、一本の太い線を持っていたことではなく、その線が切れたときに使う二本目を用意していなかったことである。太い線を一本だけ持っている家は、それが切れてしまうまで、自分がどれほど細いところに立っているのかに気づかない。そのことを、この一族はこのあと二百年かけて学んでいく。