室町の守護大名の名を並べると、斯波、畠山、細川、吉良、今川、一色と続く。これらはばらばらの家ではない。どれも足利氏の分家である。図をたどると、幕府の要職を占めた家々が一つの根から枝分かれしていることが分かる。
足利氏は清和源氏の一族である。源義家の子の義国が下野の足利荘に拠り、その子の義康から足利を名乗った。武家の棟梁の家から出た枝の一つにすぎない。
同じ義国の子の義重の系統からは新田氏が出て、その分かれが山名氏になる。図の左上に山名義範を置いてあるのはそのためで、足利と新田と山名は、さかのぼれば同じ枝である。応仁の乱で足利将軍家の跡目に山名が絡んだのも、遠い親戚どうしの争いだった。
足利氏は鎌倉幕府の御家人として、北条氏と代々姻戚を結んだ。御家人の中でも別格の家格を保ちながら、執権の家に従う立場が百五十年続く。
この長い雌伏が効いた。尊氏が幕府を倒す側に回ったとき、源氏の名門という家格が諸国の武士を集める力になる。血統が動員の道具になった例である。
図を見ると、分家が生まれた場所は主に義兼と義氏と泰氏の三代である。
尊氏が幕府を開いたとき、これらの分家がそのまま守護に任じられた。管領を出す三家である斯波・畠山・細川も、侍所の長を出す四職に数えられる一色も、すべて足利の身内である。幕府は一族で国を分ける形をとった。
身内で固めれば裏切りにくい。実際、南北朝の長い争乱を通じて、足利の一門はおおむね将軍家の側に立った。
しかし弱点も同じところにある。分家がそれぞれ国を持てば、その分家にも跡目が生まれる。跡目が割れれば守護の家が割れ、守護の家が割れれば幕府が割れる。応仁の乱で畠山と斯波が同時に割れたのは、幕府が一門に依存した構造の裏返しだった。
足利家そのものも一つでは続かなかった。尊氏は弟の直義と観応の擾乱で争い、直義は敗れる。尊氏の子では、義詮が京の将軍家を継ぎ、基氏が鎌倉公方となって東国を預かった。
京と鎌倉の二つの足利家は、やがて対立する。鎌倉公方はのちに古河公方と堀越公方へ分かれ、東国は乱れたままになった。分家を作って任せるやり方は、代を重ねるほど分かれ目を増やしていく。図の下のほうで枝が三つに割れているのは、その始まりである。
足利の一門の中でも格の高い家は御一家と呼ばれ、幕府の中で特別な席を与えられた。吉良、石橋、渋川がそれにあたる。将軍家に世継ぎが絶えたときは吉良から迎え、吉良も絶えれば今川から迎えるという言い伝えが残る。
真偽はともかく、順番があるという考え方そのものが、この一門の性格を示している。血の近さで序列を決めておけば、跡目が空いたときに争わずに済む。決め方を先に用意しておく発想である。応仁の乱ではその備えが働かなかったが、用意そのものはされていた。
幕府の職も家で決まっていた。管領は斯波・畠山・細川の三家から出し、侍所の長は赤松・一色・山名・京極の四家から出す。前者を三管領、後者を四職という。
三管領はすべて足利の分家である。四職のうち一色は足利の分家、山名は新田の分かれで遠い親戚、京極は近江源氏の佐々木氏、赤松は村上源氏を称した。中枢は身内で固め、その一段外に別の源氏の家を並べる形になっている。
図に山名義範を入れてあるのは、その一段外の枝がどこから出ているかを見せるためである。応仁の乱で山名宗全が細川勝元と並び立てたのは、遠いとはいえ同じ源氏の枝だったからでもある。
守護になれる家が足利の一門にほぼ限られたことは、家柄が資格そのものだったことを意味する。誰が有能かではなく、誰がどの枝の出かで職が決まる。
その仕組みが崩れるのが戦国である。守護代や国人が主家を越えて国を取り、血統ではなく実力が資格になる。図の上のほうにある名がどれも室町の要職につながるのに、戦国の大名の多くがこの図に出てこないのは、そのためである。
足利の一門は、幕府を作るときには強みだった。同じ仕組みが、幕府を壊すときにも働いた。
図をもう一度上から見ると、義国から下の枝はどれも室町の要職につながっている。一つの家が二百年かけて国じゅうへ広がり、広がりきったところで内側から割れた。分家を増やすやり方には、増やした数だけ割れ目ができるという代償がついていた。守護大名の一覧は、そのまま足利の家系図でもある。