スペイン最後のハプスブルク家の王カルロス二世は、系図をさかのぼるほど先祖の数が減っていく人であった。四代にわたって叔父と姪、いとこどうしの結婚を重ねた結果である。この家は結婚で領土を広げ、同じ結婚で自分の血を閉ざした。
一五五六年、カール五世は退位にあたって、スペインと新大陸とネーデルラントを子のフェリペに、オーストリアと皇帝位を弟のフェルディナントに譲った。ハプスブルク家はここでスペイン系とオーストリア系に分かれる。
分かれたあとも、二つの家は互いに縁を結び続けた。他家へ渡さないためである。領土も血も家の外へ出さない。この方針が四代続いた。
フェリペ二世は四人の妻を娶った。最後の妻アナ・デ・アウストリアは、皇帝マクシミリアン二世と、フェリペの妹マリアの娘である。つまりフェリペの実の姪であった。跡を継いだフェリペ三世はこの二人の子である。
フェリペ三世の妻マルガリータもオーストリア系の縁者で、その子フェリペ四世も同じ道をたどった。最初の妻イサベル(フランス王アンリ四世の娘)を亡くしたのち、二番目に迎えたのがマリアナ・デ・アウストリアである。皇帝フェルディナント三世と、フェリペ四世の妹マリア・アナの娘。ここでも叔父と姪であった。カルロス二世は、このフェリペ四世とマリアナの子である。
王家の姿は絵に残っている。ベラスケスの《ラス・メニーナス》の中央に立つ幼い王女は、フェリペ四世とマリアナの娘マルガリータ・テレサである。同じ画家がフェリペ四世を三十年以上描き続け、年を追うごとに顔が疲れていくのも見て取れる。
世継ぎもいた。最初の妻イサベルの生んだバルタサール・カルロスである。馬に乗る姿がやはりベラスケスに描かれている。十六歳で没し、この死がフェリペ四世を再婚へ向かわせた。相手が姪のマリアナであった。世継ぎを失ったことが、さらに濃い婚姻を招いたことになる。
系図をさかのぼると、ふつうは世代ごとに人数が倍になる。両親が二人、祖父母が四人、曾祖父母が八人と続く。カルロス二世の場合、同じ人物が何度も現れるため、この数が埋まらない。十数代前まで数えても、理論上の人数のごく一部にしかならない。
近親交配の度合いを示す係数で見ると、カルロス二世の値は、親と子のあいだに生まれた子に近い水準になる。一度の婚姻でそうなったのではなく、四代かけて少しずつ濃くなった結果である。
カルロス二世は生まれたときから体が弱かった。歩き始めるのも話し始めるのも遅く、生涯を通じて病に苦しんだ。ハプスブルク家に伝わる下顎の突き出しはこの代で最も強く現れ、噛むことが難しかったと伝えられる。
二度結婚したが子はできなかった。三十九歳で没するまで、ヨーロッパ中の宮廷がその健康について報告を集め、死んだあと誰がスペインを継ぐかを議論し続けた。
フェリペ四世には、最初の妻とのあいだにマリア・テレサ、二番目の妻とのあいだにマルガリータ・テレサという娘があった。マリア・テレサはフランス王ルイ十四世に、マルガリータ・テレサは皇帝レオポルト一世に嫁いでいる。どちらも家の内側に留めるための婚姻ではなく、和平のための婚姻であった。
そして、この二人の娘の子孫がスペインの相続を争うことになる。血を家の内側に閉じておく方針は、王が子を残せなかった時点で意味を失った。
一七〇〇年十一月、カルロス二世は没した。遺言はフランス王ルイ十四世の孫フェリペを相続人に指名していた。スペイン継承戦争が始まる。
ハプスブルク家の婚姻政策は、二百年にわたってよく働いた。ネーデルラント、スペイン、ボヘミア、ハンガリーが結婚で家に入っている。だが同じやり方をスペイン系だけでくり返すと、家系図は外へ広がるのをやめ、内側で折り返す。カルロス二世の系図は、その折り返しが限界に達した図である。
オーストリア系のハプスブルク家は、家の外との縁も保ち続けた。こちらは断絶せず、のちにマリア・テレジアの代で女系に移りながらも、第一次世界大戦まで続いている。同じ家の二つの枝で、結果がここまで分かれたことになる。
カルロス二世が四歳で即位したとき、母マリアナが摂政となった。オーストリアから来た王妃が、スペインの政を十年以上動かすことになる。宮廷では母后の側近と貴族の派閥が争い、王が成人しても病弱なままだったため、この争いは終わらなかった。
血を家の内側に集める婚姻は、王妃を外交の相手ではなく身内にする。身内であれば信は置けるが、その母がそのまま権力を持つと、宮廷は家の中の話で埋まっていく。スペインの統治が十七世紀の後半に停滞した理由の一つがここにある。