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独孤信の三人の娘:北周・隋・唐が同じ外戚から出た

中国の王朝が交代するとき、皇室の姓は変わる。しかし皇室の周りにいる人まで入れ替わるとはかぎらない。北周・隋・唐という三つの王朝の皇室は、独孤信というひとりの西魏の武将の娘たちから出ている。長女が北周の皇后、七女が隋の皇后、四女が唐の高祖の母である。姓が三度替わっても、外戚の家はひとつだった。

八柱国という層

六世紀の半ば、北魏は東西に割れた。西魏を実際に動かしたのは宇文泰で、その下に八柱国と呼ばれる有力な将軍が置かれる。関中と隴西を地盤にした武人の集団で、鮮卑と漢人が混じっていた。

独孤信はその八柱国のひとりである。鮮卑の出で、身なりの美しさで知られ、独孤郎と呼ばれた。この層は互いに娘を交換して結び合い、閉じた通婚圏を作っている。のちに関隴集団と呼ばれる層である。

長女 — 北周の皇后

宇文泰の子である宇文毓が北周の二代皇帝、明帝になる。その皇后が独孤信の長女、明敬皇后である。西魏を実際に握った家と、八柱国の家が結ばれた形になる。

ただし独孤信自身は、宇文泰の死後に実権を握った宇文護と合わず、五五七年に自殺を命じられた。娘が皇后になった家に、父が殺されている。

宇文護は宇文泰の甥で、幼い従弟たちを立てながら実権を握った。北周の初代孝閔帝と、明帝の二人を殺している。八柱国の家を削っておく必要があったので、独孤信もそこに含まれた。皇后の父であることは、この局面では守りにならない。娘を入れて外戚になるという手は、相手の家が安定していてはじめて効く。

七女 — 隋の皇后

七女の独孤伽羅は、同じ八柱国である楊忠の子の楊堅に十四歳で嫁いだ。父が死んだのはその直後である。

楊堅は北周の重臣として昇り、娘の楊麗華を宣帝の皇后に入れた。宣帝が早く死ぬと、まだ幼い次の皇帝の後見に回り、五八一年にその位を譲り受けて隋を建てる。娘を入れて外戚になり、外孫の位を取るという手順である。蘇我氏も藤原氏も同じ道を通っている。

独孤伽羅は隋の文献皇后となった。夫に側室を持たせず、朝政にも口を出し、二人あわせて二聖と呼ばれる。太子の楊勇を廃して次男の楊広を立てさせたのも、この皇后だったと伝えられる。楊広が煬帝である。

四女 — 唐の高祖の母

四女は、同じ八柱国である李虎の子の李昞に嫁いだ。その子が李淵、唐の高祖である。のちに元貞皇后と追尊された。

つまり李淵の母と、隋の文帝の皇后は姉妹である。李淵と煬帝は母方のいとこにあたる。隋を倒して唐を建てた男は、隋の皇帝の従兄弟だった。

王朝が三つ替わっても

図を見ると、北周・隋・唐の三つの王朝が、独孤信の三人の娘からそれぞれ下へ伸びている。姓は宇文・楊・李と替わるが、母方をたどるとどれも同じ一点へ戻る。

王朝の交代というと、別の勢力が前の勢力を倒したように見える。しかしこの時代の交代は、同じ通婚圏の内側で誰が上に立つかが入れ替わっただけである。倒す側も倒される側も、同じ家の婿か外孫だった。

この層をひとまとまりと見て関隴集団と呼ぶ見方がある。北周から隋、唐の初めまで、皇帝も宰相も将軍もほとんどこの通婚圏から出た。唐が科挙を整え、外から人を入れる道を広げるまで、二百年ほど続いた層である。

娘の数という資源

伊達稙宗が奥羽で子女を配ったのと、やっていることは変わらない。違うのは、独孤信の娘が入った先が、たまたま次々に天下を取ったことである。

娘を多く持つ家は、どの家が伸びても縁戚でいられる。父が政争で死んだあとも、娘たちの縁だけは残った。独孤信が自殺させられた二十四年後に七女の夫が皇帝になり、さらに三十七年後には四女の孫が皇帝になっている。

従兄弟が国を取り替える

煬帝は大運河と高句麗遠征で人と物を使い果たし、各地で反乱が起きた。太原を守っていた李淵が兵を挙げ、六一八年に唐を建てる。同じ年、煬帝は江都で殺された。

李淵にとっては、母の姉の子の国を倒したことになる。取り替えたのは王朝であって、支配層ではない。唐の初めの功臣の顔ぶれは、隋のそれとほとんど重なっている。図の三本の枝が最後に一本へ絞られただけで、輪の外から人が入ってきたわけではなかった。

図の読み方

この図を縦に読むと、三つの王朝の始まりが並んでいるだけに見える。横に読むと、三本とも一段目でつながっていることがわかる。

系図の縦の線は誰が継いだかを示し、横の線は誰と結んだかを示す。王朝の交代を追うときに見るべきなのは、たいてい横のほうである。誰が皇帝になったかは正史の巻頭に残るが、誰の娘がどこへ嫁いだかは、系図に描いてはじめて目に入る。三つの王朝が同じ一点から出ていることは、年表をいくら並べても見えてこない。