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コンスタンティヌスの子と甥:一族を消して残った二人

コンスタンティヌス大帝が死んだ三三七年、その葬儀の直後に一族の粛清が起きた。皇帝の異母弟たちとその子が、ほとんど殺されている。生き残ったのは十二歳と六歳の従弟二人だけだった。やがてその二人に帝国が託される。図に並ぶ名の半分近くが、同じ年の数か月のあいだに消えた。

二人の妻から始まる

コンスタンティウス・クロルスには二人の妻がいた。最初の妻ヘレナとのあいだの子がコンスタンティヌス一世である。次の妻テオドラは正帝マクシミアヌスの娘で、こちらとのあいだにダルマティウスユリウス・コンスタンティウスらが生まれた。

つまりコンスタンティヌスと異母弟たちは、母の家格が違う。ヘレナは宿屋の娘とも伝えられ、正式な婚姻だったかも疑われている。血の順序ではなく、力の順序で立った皇帝だった。

長男を殺す

三二六年、コンスタンティヌスは長男のクリスプスを処刑した。クリスプスは最初の妻ミネルウィナの子で、ガリアでの戦功もあった有能な副帝である。同じ年、皇后のファウスタも死んでいる。

理由は伝わらない。継母と継子の醜聞という説が古くからあるが、確かなことはわからない。確かなのは、この一件で最も年長の跡継ぎが消え、残ったのがファウスタの産んだ子たちになったことである。

三つに分けた

三三七年にコンスタンティヌスが死ぬと、帝国は三人の子に分けられた。コンスタンティヌス二世が西、コンスタンスが中央、コンスタンティウス二世が東である。甥のダルマティウス・カエサルにも一部が割り当てられていた。

しかし葬儀のあと、軍が動く。テオドラの血を引く男子がほぼ全員殺された。誰が命じたかは記録がはっきりしないが、得をしたのはコンスタンティウス二世である。

名分としては、大帝は毒を盛られたのであり、犯人は異母弟たちだという話が立てられた。粛清されたのは、遺言で領分を割り当てられていた側でもある。分けると決めた当人が死んだ直後に、分け前の宛先が減らされたことになる。

助命されたのは、ユリウス・コンスタンティウスの子であるガッルスユリアヌスの二人だけだった。病弱な少年と、まだ幼い子である。

兄弟も殺し合う

分けたはずの三人も長くはもたない。三四〇年、コンスタンティヌス二世が弟コンスタンスの領分へ攻め込んで戦死する。三五〇年には、コンスタンスが部下のマグネンティウスに殺された。

三五三年、コンスタンティウス二世が反乱を鎮めて単独の皇帝になる。父の子も叔父の子も、ほとんど残っていない。皇帝は自分の一族を消した結果として、後継者を欠くことになった。

残した二人を使う

そこで、生かしておいた二人を呼び戻す。三五一年、ガッルスを副帝に立て、妹のコンスタンティナと結婚させた。ガッルスは三年で失政をとがめられて処刑される。

三五五年にはユリアヌスを副帝に立て、もう一人の妹ヘレナと結婚させた。父と兄を殺した家の娘と結ばれたことになる。ユリアヌスはガリアで勝ち続け、三六〇年に軍に推されて皇帝を称した。内戦になる直前、コンスタンティウス二世が病死する。

一族が尽きる

ユリアヌスはキリスト教を国の宗教とする流れを押し戻そうとしたが、三六三年のペルシア遠征で戦死した。子はない。コンスタンティウス・クロルスから数えて、この家系はここで絶える。

殺し尽くしたところには、たまたま生き残った枝しか残らない。その枝が皇帝になり、子を残さずに死んだ。

信仰も枝ごとに割れた

この一族の争いは、教会の争いとも重なっている。コンスタンスは西でニカイア派を支え、コンスタンティウス二世は東でアリウス派に近い立場を取った。兄弟が領分で分かれると、その領分ごとに支持する教義まで分かれる。

最後に立ったユリアヌスは、そのどちらでもなく古い神々へ戻そうとした。祖母ヘレナが聖地へ赴いて十字架を探したと伝えられる家から、三代目でこの皇帝が出ている。一族を消したことは、受け継がせるはずの立場まで途切れさせた。

図の読み方

この図の枝は、下へ行くほど細くなるのではなく、途中で一斉に切り落とされている。ひとりの皇帝が正統を独占しようとすると、その独占は次の代でそのまま欠乏になる。

養子で継いだ五賢帝の百年と比べると違いがはっきりする。あちらは血の外から後継者を選べたので、選択肢が尽きなかった。血の内側だけで選ぶと決めた家は、内側を減らした瞬間に行き止まりへ入る。三三七年に殺された者の中に、三六三年の後継者がいたはずだった。粛清は一日で済むが、そこで失った枝は二十六年たっても生えてこない。残した二人を副帝に立て、妹と結婚させたのは、その欠乏をあとから埋める作業だった。