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新羅の骨品制:聖骨が絶えて真骨の王へ

新羅では、王になれる血筋があらかじめ決まっていた。聖骨という等級である。その枠のなかに男子がいなくなったとき、新羅は二代続けて女王を立てた。制度を曲げて女性が立ったのではなく、制度に従った結果そうなったのである。

生まれで頭が決まる制度

新羅には身分を血筋で定める骨品制があった。王族は聖骨と真骨に分かれ、その下に六頭品から一頭品までの頭品が置かれる。就ける官位も、着られる色も、家の大きさも、乗る車の飾りも、骨品ごとに決まっていた。六頭品はどれほど有能でも、一定の官位より上へは行けない。

聖骨と真骨の違いについて、はっきりした定義は残っていない。父母ともに最も濃い王族の血を引く者を聖骨、片方が欠ければ真骨とする見方が広く採られている。確かなのは、王になれるのは聖骨だけとされたこと、そしてその聖骨が七世紀の半ばに絶えたことである。

真興王の二人の子

六世紀に漢江流域まで領土を広げた真興王には、太子の銅輪と次子の舎輪がいた。銅輪は父より先に亡くなり、舎輪が継いで真智王となる。ところが真智王は在位四年で廃された。三国史記は、政が乱れ行いが正しくなかったためと記す。

新羅には和白という貴族の会議があり、重い決定はここで合議された。真智王の廃位もこの会議によるものとみられている。王は血筋で決まるが、その血筋のなかで誰を立て、誰を降ろすかは真骨の貴族たちが握っていた。骨品制は王家を守る仕組みであると同時に、貴族が王を縛る仕組みでもある。

代わって立ったのが、銅輪の子の真平王である。真平王は五十年以上在位したが、生まれた子は娘ばかりで男子がなかった。聖骨の枠は、この代でもう細っていた。

二人の女王

真平王が没すると、娘の徳曼が立った。善徳女王である。新羅で最初の女王であり、朝鮮の歴史でも最初の女王にあたる。皇龍寺の九層塔や瞻星台はこの代のものと伝えられる。唐に援けを求め、百済と高句麗に挟まれた苦しい時期を支えた。

善徳女王にも子はなく、次に立ったのは真平王の弟である国飯の娘、勝曼であった。真徳女王である。聖骨として残っていた人は、このときすでにこの二人だけだった。真徳女王が六五四年に没して、聖骨は絶える。

女王が二代続いたのは、女性を尊んだからというより、聖骨という枠そのものが王位の条件だったからである。枠の中に男子がいなくなれば、枠の中の女性が立つ。血筋の等級で王位を決める制度では、そうなるほかない。

真骨の王

次に立ったのが真骨の金春秋、武烈王である。春秋は、廃された真智王の孫にあたる。父の金龍春は真智王の子、母の天明夫人は真平王の娘であった。廃位された家の血と、その後を継いだ家の血が、この一人で合わさっている。聖骨が絶えたとき、王家に最も近い真骨がここにいたということである。

武烈王を支えたのが金庾信である。金庾信の家はもと金官加耶の王家で、新羅に降ったのち真骨に列せられた。庾信は妹の文姫を春秋に嫁がせ、二つの家は姻戚になった。文姫が生んだ子が文武王である。加耶の王家の血が、統一新羅の王に入ったことになる。

武烈王は唐と結んで六六〇年に百済を滅ぼし、文武王は六六八年に高句麗を滅ぼした。そののち唐の勢力も半島から追い出し、六七六年に統一を果たす。文武王は死後、東海の岩に葬るよう遺言し、竜となって国を守ると言い残したと伝えられる。

制度が残したもの

統一のあと、王家は真骨の貴族を抑えにかかる。文武王の子の神文王は、即位した年に義父の一族が起こした反乱を平らげ、貴族の力を削いだ。王が強くなった時期である。

それでも骨品制そのものは残り、王位は真骨が占め続けた。六頭品の人々は学問と実務で身を立てたが、上の官位には届かない。唐へ渡って科挙を受けた崔致遠のような人が出るのは、この壁があったからである。

新羅の末に地方の豪族が次々と離れていったことも、生まれで頭が決まる仕組みへの不満と切り離せない。骨品制は王家の正統を守る仕組みであると同時に、その外にいる人の道を閉ざす仕組みでもあった。

花郎という道

骨品制の下にも、人を引き上げる仕掛けはあった。若い貴族の子弟を集めて心身を鍛える花郎である。金庾信も花郎の出であり、統一の戦いを担った将はここから多く出た。歌をうたい、山野を巡り、義を学ぶ集まりであったと三国史記は伝える。

もっとも、花郎から出て高い位についたのは、やはり真骨の家の子である。生まれの枠そのものを越える道ではなかった。骨品制は新羅が滅びるまで解かれず、次の高麗は、地方の豪族が集まって立てた国になる。

血筋の等級で王を決める仕組みは、その等級が続くあいだは安定を与える。だが等級そのものが尽きたとき、制度は次を用意していなかった。新羅の女王二代は、その空白に立った人たちである。