教会の聖職者に子はない。少なくとも、いないことになっている。だからこそ、司教や修道院長に領地を預ける仕組みが成り立った。世襲されない家臣を作れるからである。ボルジア家がしたのは、その前提を正面から破ることであった。
ボルジア家はバレンシア地方の出身である。もとの名はボルハであった。一四五五年、この家のアルフォンス・デ・ボルハが教皇カリストゥス三世となる。イタリアの外から出た教皇であり、ローマの貴族社会からは異物と見られた。
この教皇は、頼れる縁者として甥たちをローマへ呼んだ。そのうちの一人がロドリーゴである。二十五歳で枢機卿となり、教皇庁の財務を長く握った。
甥を引き上げることは、当時めずらしくない。イタリア語で甥を意味する言葉から、縁者を重んじる意味の語ができたほどである。ただし多くの場合、甥として引き上げられた者のなかには、実の子が混じっていた。
一四九二年、ロドリーゴは枢機卿たちに金と地位を配って教皇に選ばれた。アレクサンデル六世である。
この教皇が新しかったのは、子を隠さなかったことである。ローマの女性ヴァノッツァ・カタネイとのあいだの四人の子を、公然と自分の子として扱った。長男チェーザレ、次男フアン、娘ルクレツィア、末子ホフレである。
公式の文書でも、儀式の席でも、彼らは教皇の子として遇された。甥という言い換えすら使われないことがあった。教皇が家を持ち、その家のために教会の力を使うことを、隠さずに行ったのである。
父は子に役割を振り分けた。次男フアンには軍を任せ、スペインのガンディア公領を継がせた。長男チェーザレは十八歳で枢機卿とし、教会の側から家を支えさせるつもりであった。
一四九七年、フアンがテヴェレ川で刺殺体となって見つかる。犯人はわからなかった。この事件のあと、チェーザレは枢機卿の位を辞した。枢機卿が自ら位を返すのは前例のないことである。
そして父の軍を率いる立場に移った。教会の位から俗の位への転身であり、家の中で兄弟の役割が入れ替わったことになる。
娘ルクレツィアの結婚は、そのつどの外交そのものであった。
最初はミラノのスフォルツァ家のジョヴァンニ。同盟の相手が変わると、この結婚は婚姻が成立していないという理由で解消された。次はナポリ王家のアルフォンソ・ダラゴーナ。ナポリとの関係が不要になると、この夫は路上で襲われ、療養中に絞め殺された。チェーザレの手によるとされる。
三度目がフェラーラのエステ家のアルフォンソである。この結婚のあと、ルクレツィアはフェラーラの公妃として長く尊敬された。芸術を保護し、領国の統治も代行している。父と兄が死んだあと、彼女だけが自分の場所を得たことになる。
チェーザレはロマーニャ地方の小領主を次々に倒し、自分の公国を作った。マキアヴェッリはこの人の手際を見て『君主論』の材料にしている。
一五〇三年八月、アレクサンデル六世が熱病で急死した。チェーザレも同じ時期に重い病にかかり、動けなかった。次の教皇には、ボルジア家を憎むデッラ・ローヴェレ家のユリウス二世が選ばれた。
チェーザレは領地を失い、捕らえられ、スペインへ送られた。逃げ出して傭兵となり、一五〇七年、ナバラの小さな戦いで死んだ。三十一歳であった。父の死から四年で、家の力は消えた。
それで家が終わったわけではない。殺された次男フアンの子孫は、スペインのガンディア公家として続いた。
その曾孫にあたるフランシスコ・ボルハは、妻の死後にイエズス会へ入り、三代目の総長となった。会の教育制度を整え、各地に学院を置いた。のちに聖人に列せられている。
最も悪名の高い教皇と、聖人に数えられる修道会の総長が、同じ家系図の上に並ぶことになった。四代しか離れていない。
ボルジア家の系図は、教皇を頂点に置いて描くしかない。それ自体が異例である。教会の頂点にある人物が、家系図の起点として書かれるのだから。
父は子に軍と教会の位を配り、娘の結婚で同盟を組み替えた。世俗の君主がやることを、教皇の立場からそのまま行った。それが可能だったのは、教皇の権威が家の道具として使える程度に強く、そして家を抑える仕組みが教会の側になかったからである。
ボルジア家の一代が残した最も大きな結果は、教会の内側にこの反省を残したことであった。半世紀のちの改革では、聖職者の身分と家の関係があらためて厳しく問われることになる。
ボルジア家には、毒殺と近親相姦の噂が付いてまわった。ルクレツィアが指輪に毒を隠していたという話は、後世の小説や歌劇が広めたものである。当時の記録に確かな根拠は乏しい。
噂が長く残ったのには理由がある。この家はスペインから来た外来の家であり、ローマの旧家から敵視されていた。次の教皇ユリウス二世は前任者を憎み、その記録を消させ、住んでいた部屋を封じた。悪評を書き残す側が、そのあとの権力を握ったのである。
家系図の脇に書き込まれる評判は、たいてい勝った側が書く。ボルジア家の場合、その書き手がローマ教皇であった。