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第十八王朝:アメンホテプ四世とツタンカーメン

エジプトの王家は三千年のあいだに何度も入れ替わった。そのなかで第十八王朝の終わりは、記録から名を消されるという珍しい形をとっている。都を移し、神を一つにしぼった王が、次の代にいなかったことにされたのである。残ったのは、その王の子である少年王の墓だけだった。

新王国の王朝

エジプト第十八王朝は紀元前十六世紀に始まる。ヒクソスを追い出したイアフメス一世が開き、トトメス三世の代にはシリアからヌビアまで版図を広げた。新王国と呼ばれる時代の最初の王朝である。ここで見るのはその末期、アメンホテプ三世からツタンカーメンまでの四代にあたる。

アメンホテプ三世とティイ

アメンホテプ三世は三十年以上在位し、大きな戦をせずに済んだ。テーベに神殿を建て、近隣の王たちと手紙を交わしている。アマルナで見つかった大量の外交文書が、その往復を伝える。

正妃のティイは王族の出ではない。神官でも将軍でもない家の娘が大王妃となり、公の記念物に王とならんで刻まれた。それまでのエジプトでは異例のことである。ティイは夫の代にも子の代にも影響を持ち続けた。外国の王がティイ宛てに手紙を書いた例も残っている。

アクエンアテンの改革

その子のアメンホテプ四世は、即位して数年で名をアクエンアテン、すなわちアテンに仕える者と改めた。テーベを離れ、何もない土地に新しい都アケトアテンを築く。いまのアマルナである。

改革の中心はアテン、日輪の崇拝であった。それまでのエジプトは多くの神を並べて祀り、なかでもテーベのアメン神とその神官団が大きな力を持っていた。アクエンアテンはアメンの名を記念物から削らせ、神殿への寄進を断った。信仰の改革であると同時に、神官団の力を削ぐ政治でもあった。

美術も変わる。王とその家族は、細長い顔と丸みを帯びた腹を持つ姿で表され、妻や娘と手をつなぐ場面が刻まれた。動かない理想の姿を彫り続けてきたエジプトの美術としては、まったく別のものである。

正妃はネフェルティティであった。アテンに供物を捧げる場面に王とならんで描かれ、王と同じ大きさで表されることもある。二人のあいだには六人の娘が生まれたが、男子はなかった。改革を支える立場にありながら、最後の数年の消息ははっきりしない。

ツタンカーメン

アクエンアテンの子のツタンカーテンは、九歳ほどで即位した。母はネフェルティティではなく、別の妃である。少年王は数年のうちに名をツタンカーメンと改め、都をテーベへ戻し、アメンの神殿を建て直した。アテンの改革はここで終わる。実際に政を動かしたのは、老臣のアイと将軍のホルエムヘブであったと考えられている。

妻となったのはアンケセナーメン、アクエンアテンとネフェルティティの娘である。ツタンカーメンにとっては異母の姉にあたる。王家の内側で結ぶのはエジプトでは珍しくない。二人のあいだに生まれた子は、二人とも生まれるに至らなかったとみられている。

ツタンカーメンは十八歳ほどで没した。王としての事績は少ない。それでも今日いちばん知られた名になっているのは、墓が盗掘をほとんど受けずに残ったからである。急な死で小さな墓に葬られ、その入口が後の王の墓を掘った際の残土に覆われたことが、三千年ののちの発見につながった。

記録から消された王たち

ツタンカーメンには跡継ぎがなかった。位についたのは老臣のアイ、次いで将軍のホルエムヘブである。どちらも王家の血筋ではない。

ホルエムヘブはアクエンアテンからアイまでの王の名を王名表から削り、自分がアメンホテプ三世の跡を直接継いだかのように年数を数え直した。アケトアテンの都は捨てられ、建物は解体されて他の神殿の石材に回された。皮肉なことに、壁の中に積まれた石が長く外気に触れずに済み、アマルナの浮彫はかえってよく残っている。

ホルエムヘブにも子がなく、跡は将軍のラムセスへ譲られた。ラムセス一世、第十九王朝の始まりである。第十八王朝は、王家の血が細っていくなかで、仕えていた臣が順に位につくかたちで終わった。家系図で見ると、最後の四代は父から子へ一本の線で下りたあと、その先がぷつりと切れている。

発見

一九二二年十一月、ハワード・カーターが王家の谷でツタンカーメンの墓の入口を掘り当てた。副葬品は五千点を超え、黄金の仮面と三重の棺がそのまま残っていた。ほとんど無名だった少年王が、これによってエジプトの王のなかで最も有名になる。

発見が伝えたのは金の量だけではない。副葬品には、アテンの名を持つ品と、アメンの名に改められた品が混じっている。改革から復古へ折り返す途中で死んだ王の墓であることが、物に刻まれた名から読み取れる。記録から消された王朝の最後の姿が、消し忘れられた一つの墓に残っていた。