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五摂家:摂関の座を五つの家で回す

摂政と関白を出す家は、平安の終わりから鎌倉にかけて五つに分かれた。近衛、九条、二条、一条、鷹司である。まとめて五摂家という。以後、明治まで七百年、摂関はこの五家の中から選ばれた。図をたどると、五つとも藤原忠通という一人の子孫であることが分かる。

分かれた事情

忠通は保元の乱で弟の頼長と争った人物である。その子の代から家が分かれた。長男の基実が近衛、次男の基房が松殿、三男の兼実が九条を名乗る。

分かれた理由は単純で、摂関の座を継げる子が複数いたからである。一人に決めれば残りは臣下に落ちる。それぞれに家を立てさせれば、どの子の家も摂関を出す資格を保てる。跡目争いを、家を増やすことで処理した。

忠通と頼長が家督を争って戦にまで至ったことを思えば、この処理は前の代の失敗から学んだものだったともいえる。

松殿が落ちる

三つのうち松殿家は続かなかった。基房は源義仲と結んで一時は権勢を得たが、義仲が滅びると失脚する。摂関を出す家としての地位を失い、五摂家には数えられない。

図に松殿基房を残してあるのは、この時期に四つ目の枝があったことを示すためである。分家を作れば必ず残るわけではない。どの枝が生き延びるかは、その代の政治の風向きで決まった。

摂関を出す家が固定される前

藤原氏が摂関を独占するようになっても、当初はどの流れが継ぐか決まっていなかった。忠平のあとは実頼と師輔の家が並び、兼家と兼通の兄弟が争い、道長と伊周が競っている。そのつど勝った者の家が続く形だった。

五摂家が定まったのは、この争いを毎回やらずに済ませるためでもある。資格を五つに限れば、外から来る者はいない。中の順番は争っても、枠そのものは動かない。

五つになる

近衛家では、基実から基通、家実と続き、家実の子の代で近衛と鷹司に分かれた。九条家では、兼実から良経、道家と続き、道家の子の代で九条・二条・一条に分かれる。

この二度の分岐で五家がそろった。鎌倉時代の半ばのことである。以後、新たに加わる家も、脱落する家もない。図の下の段に五つの名が横に並ぶところが、七百年動かなかった枠にあたる。

五家で回すということ

摂関の座は一つしかないので、五家が順に就く形になる。争いがなくなったわけではないが、資格のある家が五つに固定されたことで、外から入る余地はなくなった。

これは藤原氏にとって守りの仕組みである。一つの家が独占すれば、その家が絶えたときに座そのものが危うい。五家に分けておけば、どこかが絶えても残りが継げる。徳川の御三家や皇室の世襲親王家と同じ発想が、ここでは五つ横並びの形をとった。

摂家将軍

図で九条道家の下に置いた九条頼経は、鎌倉へ下って四代将軍になった人物である。源氏の将軍が三代で絶えたあと、北条氏が京から迎えた。

摂関家の子が武家の棟梁の座に就くという、この時代でなければ起きない組み合わせである。北条にとっては、名目の主として家格の高い人物が要った。摂関家にとっては、子を送り込む先が一つ増える。九条の枝は、京の摂関だけでなく鎌倉の将軍家へも伸びていたことになる。

実権は失っていた

ただし五摂家がそろった頃には、朝廷の実権はすでに院政と幕府へ移っている。摂関は名誉ある地位として残り、家格を示す枠として働いた。

道長の頃の摂関は、外戚として天皇を動かす立場だった。五摂家の摂関は、順番に就く役職である。同じ名の地位が、二百年ほどで意味を変えた。座を守る仕組みが整ったときには、座そのものの中身が抜けていたことになる。

家格が固まると

五摂家の下には清華家、大臣家と続く序列があり、公家社会は家格で固定された。どの家に生まれたかで昇れる位が決まる。

室町の守護が足利の一門でほぼ決まっていたのと、構造は同じである。武家も公家も、鎌倉から室町にかけて、家柄が資格そのものになる方向へ進んだ。系図は、その資格を証明する文書として重みを増していく。

五摂家は明治の華族制度でも公爵に列し、近衛文麿のように総理大臣を出した家もある。忠通の子が家を分けた判断は、結果として八百年ぶんの効き目を持った。

分けるか、絞るか

家を継がせるとき、選べる道は二つある。一人に絞って残りを臣下にするか、複数に分けてそれぞれ家を立てさせるかである。

絞れば力は集まるが、その一人が絶えれば終わる。分ければ絶える危険は減るが、力は薄まり、分かれた家どうしが争う。徳川は御三家に分け、皇室は世襲親王家に分け、足利は一門に分けた。藤原氏の五摂家も同じ選択である。

分けた四つのうち、足利だけが分家に国を任せて幕府を割られた。残りの三つは、分家に権限を与えず血だけを預けている。分けること自体ではなく、分けた先に何を持たせるかが、その後を決めていた。