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葛城氏と皇統:外戚として立ち、雄略に滅ぼされるまで

武内宿禰の子孫とされる葛城氏は、五世紀の大和でもっとも強い豪族だった。ただし葛城氏が力を持った道筋は、のちの蘇我氏や藤原氏とまったく同じである。娘を天皇の后妃として入れ、生まれた子を位に就け、その母方の親族として朝廷に立った。外戚という型を最初に大きく使ったのが葛城氏であり、最初にその型ごと討たれたのも葛城氏だった。

臣下の娘が皇后になる

葛城襲津彦は四世紀の末から五世紀の初めにかけての人物とされ、朝鮮半島へ渡った記事が記紀に残る。その娘が磐之媛である。

磐之媛は仁徳天皇の皇后になった。記紀の伝えるところでは、皇族以外の家から出て皇后になった最初の例である。それまで皇后は皇統の内から迎えるものだった。豪族の娘が皇后の座に入ったこと自体が、葛城氏の力を示している。

磐之媛は嫉妬が深かったと日本書紀は書く。仁徳が八田皇女を宮に入れようとしたとき、磐之媛は難波の宮を出て筒城宮へ移り、そのまま戻らずに没した。物語として読めば后の気性の話だが、系図の側から読めば皇后の座を他の家に渡さないための争いである。八田皇女は応神天皇の娘、すなわち皇族である。磐之媛が退いていれば、次の代の外戚は葛城氏ではなくなっていた。

三代の天皇の母

磐之媛が仁徳とのあいだにもうけた子から、履中天皇反正天皇允恭天皇の三人が続けて位に就いた。住吉仲皇子を加えれば四人である。五世紀の半ば、大和の天皇はいずれも葛城の血を引いていた。

外戚が力を持つのは、天皇が幼いあいだの後見を握るからだけではない。誰を次に立てるかを決める場に、母方として座れるからである。三代続けて母方が同じ家であれば、その家は継承の相談から外れようがない。

二人目の娘

葛城氏はもう一段、血を重ねている。襲津彦の子の葛城葦田宿禰が、娘の葛城黒媛を履中天皇の妃に入れた。履中の母は磐之媛だから、履中から見れば黒媛は母方の従妹にあたる。

黒媛の生んだのが市辺押磐皇子である。父方から見ても母方から見ても葛城の血を引く皇子で、次の代の有力な候補だった。この皇子がいたことが、のちの雄略との衝突を決めることになる。

雄略という断ち切り方

允恭天皇のあと、子の安康天皇が立った。安康は大草香皇子を殺し、その妻を奪って皇后に迎えている。皇后の連れ子である眉輪王が、四五六年、安康を刺した。

眉輪王の母は履中天皇の娘である。つまり眉輪王にも、磐之媛を通じた葛城の血が入っている。のちにこの子が葛城の家へ逃げ込むのは、まったく縁のない話ではない。

このとき動いたのが允恭のもう一人の子、大泊瀬皇子である。のちの雄略天皇にあたる。大泊瀬は安康の仇を討つという名目で、兄の八釣白彦皇子と坂合黒彦皇子を殺した。眉輪王は逃げて、大臣の葛城円の邸に入る。

円は襲津彦から四代目にあたる。葦田宿禰、玉田宿禰と続いた葛城氏の本流である。日本書紀は、円が娘の韓媛と葛城の領地七区を差し出して命乞いをしたが、大泊瀬は聞かず邸に火をかけたと伝える。眉輪王も円もそこで死んだ。

続けて大泊瀬は、狩りに誘い出した市辺押磐皇子を射殺した。葛城の血を引くもっとも有力な皇子と、葛城の家の当主が、同じ年に消えている。

滅ぼした家の娘

ところが日本書紀は、そのあとに葛城韓媛が雄略の妃となり、白髪皇子を生んだと書く。白髪皇子は雄略のあとを継いで清寧天皇になった。

命乞いの場で差し出された娘が、家を焼いた男の妃となり、その子が皇位に就く。書紀の記述には筋の通らないところが残るが、結果として起きたことは明快である。葛城氏は家として滅び、血だけが皇統の内側に残った。

外戚の型を裏返すと、こうなる。娘を入れて血をつなぐやり方は、家が強いあいだは家の力になるが、家が討たれれば血だけが相手の側に残る。血は家の資産ではなく、渡してしまえば相手のものになる。

播磨から迎えた二人

清寧天皇に子はなかった。皇統はふたたび行き詰まり、播磨に隠れていた二人の王子が探し出される。市辺押磐皇子の子の億計王と弘計王で、のちの仁賢天皇顕宗天皇である。兄が億計、弟が弘計だが、先に立ったのは弟の顕宗だった。

雄略が射殺した皇子の子が、雄略の子のあとを継いだ。しかも二人の母方には葛城の血が入っている。葛城氏を討ち切ったはずの雄略の系統は一代で絶え、討たれた側の血が皇統へ戻った。

系図で見ると、五世紀の皇統は葛城の血で厚く縫われている。仁徳の后、履中の妃、雄略の妃と、三代にわたって葛城の娘が入っている。家を焼いても、この縫い目は解けなかった。

型だけが残った

葛城氏はこののち大臣を出す家に戻らない。代わって平群氏、そして蘇我氏が同じ位置に立つ。蘇我氏も武内宿禰の子孫を称する家であり、稲目が二人の娘を欽明天皇に入れたやり方は、襲津彦と葦田宿禰がしたことの繰り返しである。

葛城氏が残したのは、外戚として朝廷に立つという型そのものだった。その型は蘇我氏に受け継がれ、蘇我氏が乙巳の変で倒れたあとは藤原氏が受け継いだ。娘を入れ、孫を位に就け、母方として実権を握る。日本の政治史がこの型を離れるまでに、ここから千年以上かかる。