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上杉の二人の養子:御館の乱

上杉謙信には実子がいなかった。跡を継がせるために養子を取ったが、二人取った。一人は姉の子、もう一人は敵方だった北条氏から来た人質である。謙信が跡目を決めないまま急死したため、二人の養子が越後を二つに割って争った。御館の乱である。養子は家を継がせる手段だが、二人置けば跡目が二つになる。

上杉という名を継いだ長尾

そもそも謙信の家は上杉ではない。越後守護代の長尾氏である。長尾為景の子として生まれ、兄の長尾晴景から家督を継いだ。

上杉を名のるのは一五六一年からである。関東管領の上杉憲政が北条氏に追われて越後へ逃れ、長尾景虎に上杉の家名と関東管領の職を譲った。血のつながらない相手へ、名と職だけが渡された継承である。上杉謙信という名は、こうして手に入れたものだった。

家名が血と切り離せることを、謙信自身が体現している。そのことが次の代で効いてくる。

甥を取る

一人めの養子が上杉景勝である。謙信の姉の仙桃院が上田長尾家の長尾政景に嫁いで生んだ子で、謙信から見れば甥にあたる。

政景は一五六四年に池で溺死した。謀殺だったとも言われる。残された景勝は春日山城へ引き取られ、謙信のもとで育った。血の上では、上杉の跡目に最も近い男子である。

敵の子を取る

二人めが上杉景虎である。こちらは北条氏康の子で、北条氏政の弟にあたる。

一五六九年、武田信玄に対抗するため、上杉と北条が越相同盟を結んだ。その証として氏康の子が越後へ送られる。人質である。ところが謙信はこの若者を厚遇した。自分の初名である景虎の名を与え、養子にした。名を譲るということが謙信にとって何を意味するかは、上杉憲政から名を受け取った経緯を見れば分かる。

同盟は二年で壊れ、北条は武田と結び直した。それでも景虎は越後に留まり、養子のままだった。

跡目を決めずに死ぬ

一五七八年三月、謙信が春日山城で急死した。四十九歳である。後継を明示した形跡はない。

血の近い甥と、名を与えられた他家の子。どちらにも継ぐ理由があり、どちらにも決め手がなかった。

御館の乱

先に動いたのは景勝である。春日山城の本丸と金蔵を押さえ、自分が跡目だと宣言した。景虎は城を出て、上杉憲政の隠居館である御館に入る。乱の名はここから来ている。

外から加わる力は、はじめ景虎に有利だった。実兄の北条氏政が援軍を出し、同盟していた武田勝頼も越後へ入っている。景勝の側にあったのは、母方である上田長尾家の家臣団だけだった。

国と金を渡して勝った

景勝は勝頼と交渉した。東上野の割譲と黄金を差し出し、勝頼の妹の菊姫を娶ることを約して、甲越同盟を結び直したのである。武田が兵を引くと、北条は単独では雪の越後へ届かなくなった。

一五七九年三月、御館が落ちた。上杉憲政は景虎の子を連れて和議に出たところを討たれ、景虎は鮫ヶ尾城で自害した。景勝が家督を継ぎ、のちに上杉定勝へつなぐ。

勝った側が失ったもの

越後は二年荒れた。恩賞の配分をめぐって家中がさらに揉め、重臣の直江信綱が殺されている。その直江家を継いだのが樋口兼続、のちの直江兼続である。

外交の帳尻も合わなかった。武田と結んだことで北条が離れ、北条は織田信長へ接近する。一五八二年に武田が滅ぶと、上杉は織田の大軍に攻められた。本能寺の変が起きなければ、そこで終わっていた可能性が高い。

米沢まで

景勝はのちに豊臣秀吉に従い、五大老の一人に数えられた。一五九八年には越後から会津へ移り、百二十万石を与えられている。守護代の長尾家から出た者が、上杉の名で大大名になった。

一六〇〇年の関ヶ原では西軍に付き、敗れて出羽米沢三十万石へ減らされた。それでも家は残り、江戸の世を通して続いている。御館の乱で越後が荒れたことを思えば、家が残ったこと自体が結果としては勝ちだった。

ただし残ったのは謙信の血ではない。景勝は謙信の姉の子であって、謙信の子ではない。上杉という家は、憲政から謙信へ、謙信から景勝へと、二度続けて血の切れ目をまたいで渡っている。

取り込む養子と、割る養子

同じ時代に、毛利元就は子を吉川家と小早川家へ送り込み、養子で二つの家を取り込んだ。上杉は逆に、他家から養子を迎え入れた。

送り出す養子は家を広げる。何人送っても本家の跡目は一つのままだからである。迎え入れる養子は跡目そのものを増やす。二人迎えれば、どちらかは必ず余る。

謙信は名と血のどちらでも家が継げることを知っていた。自分がそうして上杉になったからである。だから甥にも他家の子にも同じ資格を与えられた。与えたまま、どちらかに決めずに死んだ。血で決まらず、名でも決まらないとき、残る決め方は武力しかない。