いまのイランがシーア派の国であるのは、一つの家の決断による。神秘主義の教団を率いていた家が、十六世紀の初めに王朝を立て、その信仰を国の宗教としたからである。その家は自らを、預言者の娘の子孫であると称した。
十四世紀、アゼルバイジャンのアルダビールにシャイフ・サフィー・アッディーンという導師がいた。その教えを慕う人々が集まり、教団ができた。指導者の地位は父から子へ受け継がれ、四代目、五代目になると、教団は宗教の集まりから武装した勢力へ変わっていく。
信徒の中心は、アナトリア東部からアゼルバイジャンにかけて住むトルコ系の遊牧民であった。赤い帽子をかぶったのでキズィルバーシュ(赤頭)と呼ばれた。彼らは導師を、単なる指導者ではなく、神に近い存在として崇めた。
この家は、第七代イマームのムーサー・アル・カーズィムの子孫であると称した。つまりアリーとファーティマの血を引き、預言者ムハンマドにつながるという主張である。
この系譜は、王朝が立ったあとに整えられたものと見る研究が多い。もとの家系の記録には、その主張は見あたらない。ただし、それが作られたものかどうかは、当時の人々の行動には関係がなかった。信徒はそれを信じ、その信頼が兵を動かした。
血筋は、事実として存在するかどうかとは別に、信じられることで力を持つ。サファヴィー家の系図は、その最もはっきりした例である。
実際の系図には、思いがけない線も入っている。教団の指導者ハイダルの妻マルタは、白羊朝の君主ウズン・ハサンの娘であった。そしてウズン・ハサンの妻は、黒海南岸のトレビゾンド帝国の皇女デスピナ・ハトゥンである。
トレビゾンド帝国は、ビザンツのコムネノス家の枝が建てた国である。つまりイスマーイール一世は、母方をさかのぼるとローマ皇帝を称した家につながる。ビザンツ最後の枝の血が、イランのシャーに入っていたことになる。
イスマーイールは、父も祖父も戦死したあと、幼くして教団を継いだ。追われて各地に隠れ、十二歳で兵を集め始めた。一五〇一年、タブリーズを占領して自らシャーを名乗る。十四歳であった。
そして十二イマーム派シーア派を国の宗教と定めた。当時のイランの住民の多くはスンナ派であり、これは上からの改宗であった。スンナ派の学者は追われ、シーア派の学者がレバノンなどから招かれた。数世代のうちに、イランはシーア派の国になる。
西のオスマン帝国はスンナ派である。国境をはさんで信仰が対立し、両国は二百年にわたって戦い続けた。一五一四年、チャルディラーンでイスマーイール一世はセリム一世の火砲に敗れる。神に近い存在と信じられていた導師が敗れたことは、キズィルバーシュの信仰にも打撃であった。
以後のシャーは、教団の導師としての性格を薄め、ふつうの君主として振る舞うようになる。
最も有力なシャーがアッバース一世である。都をイスファハーンへ移し、街を整え、絹の交易を国の収入にした。軍はキズィルバーシュに頼るのをやめ、買い上げた奴隷から作った常備軍に替えた。部族の力を削るためである。
同時にこの王は、自分の血筋を削った。長子サフィー・ミールザーを疑って殺させ、残る二人の子の目を潰した。王子が力を持てば脅威になるという恐れによる。跡を継いだのは、殺した長子の子サフィー一世であった。
そのころから、王子は後宮の奥で育てられるようになる。外の世界を知らないまま即位する王が続く。オスマン帝国が同じ時期に始めたやり方と、結果もよく似ていた。
十七世紀の後半から、シャーは政に関心を持たず、宗教の学者と宦官が実権を握った。軍は弱り、地方は離れた。一七二二年、東から来たアフガンのギルザイ族に都を落とされ、王朝は事実上倒れる。
一七三六年、将軍ナーディルが王を廃して自ら位についた。教団の導師の家がシャーになってから、二百三十年余りであった。
サファヴィー家の系図には、二つの層がある。表向きに掲げられた、アリーとファーティマへつながる長い線と、実際にたどれる、アルダビールの導師の家から始まる線である。前者は主張であり、後者は事実である。
そして事実の側にも、思いがけない線が交わっている。白羊朝の君主の娘、その母であるトレビゾンドの皇女。イランをシーア派に変えた王朝の血には、キリスト教の皇帝の家の血が入っていた。
家系図は、正統を語る道具であり、同時にその語りに収まらないものを残す記録でもある。サファヴィー家の場合、掲げた系図と残った系図の両方が、この王朝の性格をよく示している。