記事

ルイ十四世の跡継ぎ:正嫡が次々に死んで曾孫が継いだ

ルイ十四世は七十二年在位し、正嫡の子は一人だけ育った。その子も孫も曾孫も、王より先に死んだ。一七一五年に王が没したとき、跡を継いだのは五歳の曾孫であった。

一人だけの世継ぎ

ルイ十四世は一六六〇年、スペイン王フェリペ四世の娘マリー・テレーズと結婚した。生まれた子は六人だが、育ったのは長男のルイだけである。大王太子と呼ばれた。

大王太子はバイエルン選帝侯の娘と結婚し、三人の子を残した。長男がブルゴーニュ公ルイ、次男がアンジュー公フィリップ、三男がベリー公シャルルである。次男は一七〇〇年にスペイン王フェリペ五世となり、フランスの継承からは外れた。

王、王太子、その子、その孫と四代がそろっている状態は、王家としては安泰に見えた。

一年半の連続

一七一一年四月、大王太子が天然痘で没した。四十九歳であった。世継ぎはブルゴーニュ公ルイに移る。この人は家庭教師フェヌロンに育てられ、質素と節度を重んじる王になると期待されていた。

翌一七一二年二月、その妻マリー・アデライードが麻疹で死ぬ。六日後にブルゴーニュ公自身が死んだ。三月には、二人の長男でブルターニュ公と呼ばれた五歳の子も死んだ。

同じ病の床にいた次男は、まだ二歳であった。この子だけが生き延びた。当時の治療は瀉血をくり返すことであり、養育役のヴァンタドゥール夫人が医師を部屋へ入れなかったために助かったと伝えられる。この子がのちのルイ十五世である。

一七一四年には、残っていたベリー公シャルルも狩りの事故がもとで没した。三年のあいだに、王位に近い者が四人消えたことになる。

遺言と摂政

一七一五年九月、ルイ十四世は七十六歳で没した。在位七十二年は、ヨーロッパの君主で最も長い。跡を継いだのは五歳のルイ十五世である。

ルイ十四世は遺言で、庶子のメーヌ公らを継承の順位に加え、摂政の権限を制限しようとした。曾孫が幼く、その次に控えるのがスペイン王となった孫であるという事情が、この用心を生んだ。だが王の死の直後、高等法院は遺言のこの部分を破棄した。摂政となったのは、王の甥にあたるオルレアン公フィリップである。

条約が決めた順位

継承の話は国内だけの問題ではなかった。一七一三年のユトレヒト条約で、スペイン王フェリペ五世はフランス王位の継承権を放棄している。フランスとスペインが同じ王のものになることを、ヨーロッパが認めなかったからである。

つまり、ルイ十五世が子を残さずに死んだ場合、血筋の上で最も近いスペイン王家は継げない。次はオルレアン家であった。摂政をオルレアン公が務めたのは、この順位からいえば当然のことになる。王家の系図の読み方が、国内の相続の理屈ではなく国際条約で決められた時期であった。

くり返した形

ルイ十五世は五十九年在位した。子は多かったが、世継ぎの王太子ルイは一七六五年、父より先に没した。その子が一七七四年に即位したルイ十六世である。

祖父から孫へ、あるいは曾祖父から曾孫へ。ブルボン家は二代続けて、一つ世代を飛ばして王位を渡したことになる。長く在位する王が続くと、次の世代は待っているうちに死ぬ。

家系図で見ると

ルイ十四世からルイ十六世までの系図は、上から下へ細い一本の線で下りている。枝はあるが、王位を継いだ線はどこも一人ずつである。正嫡が少なく、その少ない一人が早く死ぬたびに、家は次の一人へ賭けることになった。

一七一二年に二歳の子が生き延びたかどうかで、フランスの王位はオルレアン家へ移っていたかもしれない。あるいはスペイン王が放棄を撤回して争ったかもしれない。ヨーロッパの秩序が、瀉血をしなかったという一つの判断にかかっていたことになる。

なお、この一年半の死をめぐっては、摂政となったオルレアン公が毒を用いたという噂が当時から流れた。順位の上で得をする人がいれば、そういう話は必ず出る。今日では、麻疹と天然痘の流行によるものと考えられている。

生き延びた子の治世

瀉血を免れたルイ十五世は、五歳から六十四歳まで王位にあった。祖父ルイ十四世の七十二年に次ぐ長さである。二代でおよそ百三十年、フランスはこの二人の王だけで過ごしたことになる。

長く在位する王が続いたことには副作用があった。王が若いうちに親政を始め、老いても退かない。そのあいだに、貴族も官僚も王の一存を待つ習わしが固まっていく。孫のルイ十六世が即位したとき、王が判断を下さなければ何も動かない仕組みがそのまま残っていた。

家系図を見れば、この百三十年に王位を継いだのは三人だけである。世代の入れ替わりが起きなかったぶん、統治のやり方も入れ替わらなかった。革命の前夜の行き詰まりは、この細く長い一本の線と切り離せない。