一七〇〇年にスペイン王カルロス二世が子を残さずに没したとき、その王位を請求できる人が二人いた。どちらもカルロス二世の姉妹の子孫であり、一人はフランス王の孫、もう一人は神聖ローマ皇帝の子であった。ヨーロッパはこの二人のために十三年戦うことになる。
フェリペ四世には二人の娘があった。姉のマリア・テレサは一六六〇年にフランス王ルイ十四世へ嫁ぎ、妹のマルガリータ・テレサは一六六六年に皇帝レオポルト一世へ嫁いだ。カルロス二世に子がなければ、王位はこの姉妹の子孫へ向かう。
順で言えば姉の家、つまりフランスが先である。ところがマリア・テレサは婚姻のとき、スペインの相続権を放棄する誓いを立てていた。フランス側はこれに条件があったと主張した。持参金が支払われていないので放棄は効力を持たない、という理屈である。実際、持参金は一度も払われていない。
妹のマルガリータ・テレサは放棄していない。オーストリア側の請求は、こちらの筋を通していた。
争いを避ける道もあった。マルガリータ・テレサの娘マリア・アントニアはバイエルン選帝侯へ嫁ぎ、その子ヨーゼフ・フェルディナントがいた。フランスでもオーストリアでもない第三の家である。イングランドとオランダを交えて結ばれた分割の取り決めでは、この王子がスペイン本国を継ぐことになっていた。
ヨーゼフ・フェルディナントは一六九九年、七歳で没した。残ったのはフランスかオーストリアかの二択になった。
カルロス二世は最後の数か月、どちらに渡すかを迫られ続けた。決め手になったのは、スペインの領土を分割しないという点であった。オーストリアを選べば、イングランドやオランダが分け取りを求めてくる。フランスを選べば、その力で領土をまとめて守れる。
一七〇〇年十月、カルロス二世はルイ十四世の孫フェリペ・ダンジューを相続人と定める遺言に署名した。ただし、フランスとスペインの王位を同じ人が兼ねてはならないという条件をつけている。翌月、王は没した。
ルイ十四世は遺言を受け入れた。ヴェルサイユで孫を諸侯に披露し、これがスペイン王であると告げたと伝えられる。フェリペ五世である。
イングランド、オランダ、オーストリア、のちにポルトガルとサヴォイアが同盟を結んだ。フランスとスペインが一つの家のものになれば勢力の釣り合いが崩れる、という理由である。スペイン継承戦争は一七〇一年から十三年続いた。
戦場はネーデルラント、ドイツ、イタリア、スペイン本土に広がった。ブレンハイムでフランス軍が破れ、しかしスペイン国内ではフェリペ五世が支持を集めた。カタルーニャなど、王権の集中を嫌う地方はオーストリア側についた。
一七一一年、オーストリア側の候補カールが兄の跡を継いで皇帝となる。皇帝がスペイン王を兼ねるのは、フランスとの合同と同じくらい危うい。同盟の側の理由が崩れ、和平へ向かった。
一七一三年のユトレヒト条約と、翌年のラシュタット条約で決着した。フェリペ五世はスペインと新大陸を保つ。そのかわり、フランス王位の継承権を放棄した。ネーデルラントとミラノとナポリはオーストリアへ、ジブラルタルとメノルカ島はイギリスへ渡った。
スペインはヨーロッパの領土を失い、ブルボン家の王を得た。ハプスブルク家が二百年かけて結婚で集めた領地が、ここでほどけたことになる。
フェリペ五世は一七二四年、いったん退位して子のルイス一世に譲った。ところがルイス一世は七か月後に天然痘で没し、フェリペ五世が戻って即位し直している。
以後のスペインでは、ブルボン家がフランス式の中央集権を持ち込んだ。地方の特権は削られ、王の役人が国を運ぶ形に変わる。家が替わることは、統治の形が替わることでもあった。スペインのブルボン家は、共和政と独裁の時期をはさみながら現在まで続いている。
カルロス二世の系図は、上へさかのぼると同じ名前がくり返し現れる閉じた図である。その下に、二人の姉妹から左右へ伸びる二本の線がある。片方はフランス王家、もう片方は皇帝家へつながる。
閉じた家が絶えるとき、外へ嫁いだ娘たちの線が意味を持つ。ハプスブルク家は血を内側に集めることで領土を守ったが、王が子を残せなくなった瞬間、価値は外へ出した娘の側へ移った。スペイン継承戦争は、そのねじれから起きた戦争である。
スペインに入ったブルボン家の初代は、フェリペ五世と呼ばれた。二百年前のハプスブルク家のフェリペ二世から数えた続きの番号である。家が替わっても、王の名は家ではなく土地の側についていた。
同じことはフランスでも起きている。ヴァロワ家からブルボン家へ移ったとき、アンリ四世はヴァロワ家のアンリ三世の次の番号を継いだ。家系図の上では別の枝でも、王の列としては一本に数える。王朝の交代がしばしば見えにくいのは、この数え方のためでもある。