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藤原北家:娘を入れて摂関を独占するまで

平安の朝廷を二百年にわたって動かしたのは、藤原氏の北家である[1]。手口は飛鳥の蘇我氏と変わらない。娘を天皇の妃に入れ、生まれた皇子を位に就け、その天皇の外祖父として摂政や関白の座に座る。違うのは、それを一度きりの成功で終わらせず、代々続く仕組みにしたことである[1]。図が縦に長いのは、同じ型を何代も繰り返した結果である。

外戚はなぜ強かったのか

天皇の后妃は内裏の後宮に入るが、生まれた皇子は母の実家で育つのがふつうだった。父方の宮中より、母方の祖父の家のほうが日常的に近い。幼い天皇にとって外祖父は、政務の代行者である前に、自分が育った家の主である。

摂政と関白の違いも、この関係の上に乗っている。摂政は天皇が幼いあいだ天皇に代わって政務を執り、関白は成人した天皇に上がる文書を先に見て意見を付ける[1]。どちらも律令に定められた官職ではなく、天皇との私的な近さを根拠にした地位である[1]。血の近さが、そのまま資格になった。

だから北家は位そのものを奪おうとしなかった。武力で位を取れば簒奪になるが、娘を入れて孫を立てるかぎり、形の上では外戚が天皇を助けているにすぎない。

良房、人臣で最初の摂政になる

藤原冬嗣の子の良房(八〇四〜八七二)は、娘の明子を文徳天皇に入れた[2]。明子が生んだ惟仁親王が清和天皇として立つと、良房は天皇の外祖父になる[2]。八六六年、応天門が焼けた事件の処理を通じて、良房は皇族でない者として初めて摂政に任じられた[1][2]

図の左下がその流れである。良房、明子、清和と三代で外戚が成立している。良房の妻の源潔姫は嵯峨天皇の皇女で、臣下が皇女を正妻にした早い例でもある。

基経と阿衡の紛議

良房に男子がなく、兄の長良の子の基経が養子に入った[3]。図で基経が長良の下にいるのはそのためである。基経は八七六年に陽成天皇の摂政となり、八八四年に光孝天皇を立て、八八七年に関白となった[3]

その直後、宇多天皇の詔にあった「阿衡」の語をめぐって基経が政務から手を引き、朝廷が止まった。阿衡の紛議である[3]。天皇の言葉の解釈ひとつで政治を止められる。摂関がすでに天皇の下の一官職ではなくなっていたことを、この事件が示している。

兼家、外孫のために天皇を降ろす

基経の子は時平と忠平だが、家を継いだのは弟の忠平だった[1]。忠平は九三〇年に朱雀天皇の摂政、九四一年に関白となる[1]。以後は忠平、師輔、兼家と続く。

兼家は娘の詮子を円融天皇に入れ、生まれた懐仁親王を早く位に就けたかった。九八六年、兼家は花山天皇を欺いて出家させ、外孫を一条天皇として立てる。寛和の変である[1]。外戚であることが、天皇を替える動機にまでなっている。

道長の三后と、頼通で途切れた血

兼家の子の道長(九六六〜一〇二八)は、兄の道隆と道兼が相次いで没したあとに実権を握った[4]。道長は娘を続けざまに入内させている[4]

  • 彰子 — 一条天皇の中宮。後一条天皇と後朱雀天皇の母
  • 妍子 — 三条天皇の中宮
  • 威子 — 後一条天皇の中宮
  • 嬉子 — 後朱雀天皇の東宮時代の妃

一〇一八年十月、威子が立后した日に道長が詠んだのが「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧たることも なしと思へば」である[4]。威子は彰子の妹だから、嫁いだ後一条天皇は甥にあたる。叔母を甥に嫁がせてまで、外戚の座を空けなかった。

しかし仕組みは次の代で崩れる。道長の子の頼通は娘の寛子を後冷泉天皇に入れたが、皇子が生まれなかった[4]。一〇六八年に後冷泉が没すると、藤原氏を外祖父に持たない後三条天皇が、およそ百七十年ぶりに立った[1]。二百年の権力が、娘に皇子が生まれるかどうかという一点に懸かっていたことになる。

摂関の家そのものは絶えていない。以後は院政のもとで、天皇家の外戚から朝廷の一官職へと位置を移していく[5]。娘を入れて孫を待つという穏やかな型は、その穏やかさゆえに長く続き、そして子が生まれなかっただけで終わった。

参考文献

  1. [1]ウィキペディア(摂関政治)
  2. [2]ウィキペディア(藤原良房)
  3. [3]ウィキペディア(藤原基経)
  4. [4]ウィキペディア(藤原道長)
  5. [5]ウィキペディア(院政)