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天武の皇子たち:草壁・大津・高市と長屋王

壬申の乱に勝った天武天皇は、大臣を置かず、政務を自分の皇子たちに執らせた。皇親政治と呼ばれる。図の二段目に並ぶ皇子たちがその顔ぶれである。しかし十人が並べば、次に誰が立つかを決めなければならない。決め手になったのは能力ではなく、母が誰かだった。

大臣を置かない

天武は即位のあと、太政大臣も左大臣も置かなかった。蘇我氏のような臣下の家が権力を握る形を、壬申の乱で自分が倒した側で見ている。

六八一年、皇后と六人の皇子を集めて、互いに争わないことを誓わせた。吉野の盟約と呼ばれる。誓わせなければならないほど、皇子が並んでいることの危うさは分かっていた。

母で順位が決まる

草壁皇子の母は、天智天皇の娘である鸕野讚良、のちの持統天皇である。大津皇子の母は、その姉の大田皇女だった。図の右の枝を見ると、二人の母が姉妹であることがわかる。

大田皇女は早く死んでいる。姉の子である大津のほうが年長でも、母が生きている草壁のほうが後ろ盾を持つ。血の順序ではなく、母方の家が生きているかどうかが順位を決めた。

高市皇子は年長で、壬申の乱では実際に軍を率いた。しかし母が筑紫の豪族の娘だったので、皇位の候補には数えられていない。

大津皇子の死

六八六年に天武が死ぬと、その一月後に大津皇子が謀反を企てたとして捕らえられ、翌日に死を賜った。二十四歳である。妃の山辺皇女が後を追ったと日本書紀は記す。

草壁を立てるために消されたと見るのが普通である。争わないと誓わせた盟約から五年しかたっていない。誓約は、誓わせた本人が生きているあいだしか効かなかった。

大津は詩文に優れ、人望もあったと日本書紀は書いている。褒めたうえで謀反人として処理するのは、消したことを認めながら正当化する書き方である。万葉集には、姉の大伯皇女が弟を思って詠んだ歌が残る。

立てた側が先に死ぬ

ところが草壁も、即位しないまま六八九年に二十八歳で死ぬ。残された子の軽皇子はまだ七歳だった。

そこで母の持統がみずから即位する。孫が育つまでの中継ぎである。六九七年に軽皇子が文武天皇として立ち、持統は上皇として後ろに残った。孫を即位させるために祖母が一度位に就くという形が、ここで作られる。

高市が支える

持統の治世を支えたのは太政大臣の高市皇子である。母の身分で候補から外れていた皇子が、実務の頂点に置かれた。

六九六年に高市が死ぬと、次の皇位を誰にするかで群臣の議論が割れたと続日本紀は伝える。高市の子である長屋王を推す声もあったとされる。年齢でも実績でも、草壁の子より上だったからである。

長屋王の変

文武が二十五歳で死ぬと、母の元明、姉の元正と、草壁の血を守るための中継ぎが続いた。そのあいだ長屋王は昇進を重ね、七二四年に左大臣になる。

七二九年、長屋王は謀反を密告され、邸を囲まれて自害した。妻の吉備内親王と四人の子も死んでいる。訴えたのは藤原氏で、直後に光明子が皇后に立てられた。臣下の娘が皇后になった最初である。

皇親を退けた場所へ、そのまま外戚が入った。天武が大臣を置かずに皇子で固めた政治は、五十年ほどで逆の形へ戻ったことになる。

残った枝

図の下のほうを見ると、舎人親王の子が淳仁天皇として即位している。七五八年のことで、天武の孫にあたる。新田部親王の子の塩焼王も、一時は皇位に近い位置にいた。

草壁の枝が細るたびに、別の皇子の枝から人が出てくる。天武が十人の皇子を並べたことは、争いの種であると同時に、五十年ぶんの予備でもあった。

それでも天武の血は、七七〇年に称徳天皇が死んだところで皇位から離れる。次に立ったのは天智の孫の光仁天皇だった。壬申の乱で敗れた側の血へ、百年かけて戻ったことになる。

図の読み方

図の二段目は横に長く、そこから下へ伸びる線はほとんどが短い。並べた皇子のうち、次の代までつながったのは数本しかない。

並べることは選ばないことである。選ばないでおくと、誰かが選ばれる場面で必ず消される者が出る。吉野で誓わせた六人のうち、天寿を全うしたと言えるのは高市ひとりだった。

並べることには利もある。一人に絞れば、その一人が死んだ時点で家は行き止まりになる。草壁が二十八歳で死んでも皇統が続いたのは、ほかに皇子がいたからではなく、持統という母がいたからだが、舎人や新田部の枝が残っていたことも効いている。

備えを置くか、争いを避けるか。天武はどちらも選ばず、置いたうえで誓わせた。誓約は五年しかもたず、備えのほうは五十年働いた。皇子を並べることの損と得は、どちらか一方ではなく、結局は両方とも起きるということでしかない。