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コムネノス朝:帝国を一族の家業にした家

ビザンツ帝国は本来、血筋よりも官職の体系で動く国であった。皇帝は軍と官僚と元老院の支持で立ち、家柄は絶対ではない。その帝国を、一族の身内で運営する仕組みに組み替えたのがコムネノス家である。うまく働いたが、身内が争いはじめると帝国そのものが揺れた。

帝位を奪って始まった

一〇八一年、アレクシオス一世コムネノスは軍を率いてコンスタンティノープルに入り、帝位についた。前の皇帝たちの代に、帝国はマンジケルトでセルジューク朝に敗れ、小アジアの大半を失っていた。西からはノルマン人が迫っていた。

アレクシオス一世は、まず有力な家との縁を固めた。妻はエイレーネー・ドゥーカイナ、対立しかねないドゥーカス家の娘である。二つの家が結ばれることで、宮廷の争いを一つ減らした。

一族の家業

アレクシオス一世が採った統治のやり方は、それまでのビザンツと違っていた。従来の官職の序列とは別に、身内のための称号を新しく作ったのである。セバストクラトール、パンヒュペルセバストスといった位で、皇帝の弟や娘婿がこれに就いた。

さらに、税収を上げる土地を軍役と引き換えに与える仕組みを広げた。受け取ったのは多くが縁者である。宮廷の要職も、軍の指揮も、一族と姻族で埋まっていく。帝国の運営が家の家業になったといってよい。

この体制で、アレクシオス一世は小アジアの一部を取り戻した。第一回十字軍が通過したのもその治世である。西からの騎士たちを、失った領土の回復に使おうとした。

歴史を書いた娘

長女アンナ・コムネネは、父の伝記『アレクシアス』を書いた人である。ギリシアの古典に通じ、医学も学んだ。父の治世を詳しく伝える一級の史料であり、十字軍を東側から見た記録としても貴重である。

アンナは、夫を帝位につけようとして弟のヨハネス二世に阻まれた。以後は修道院に入り、そこで長い年月をかけて父の記録を書いた。帝位を得られなかった娘が、家の記憶を残す仕事に回ったことになる。

兄を越えて選ばれた子

ヨハネス二世は四半世紀にわたり、遠征と統治を丁寧に続けた。狩りの事故で死に臨んだとき、跡継ぎに選んだのは長男ではなく四男のマヌエル一世であった。

マヌエル一世は西方への関心が強く、ラテン人の騎士や制度を好んだ。二人の妻はいずれも西欧の家から迎えている。イタリア、ハンガリー、十字軍国家へ手を伸ばし、帝国の威を示した。ただし一一七六年、ミュリオケファロンでセルジューク朝に敗れ、小アジア回復の望みは絶たれる。

幼帝と粛清

一一八〇年にマヌエル一世が没すると、十一歳のアレクシオス二世が立ち、母のマリアが後見した。マリアは西方の家の出であり、コンスタンティノープルではラテン人優遇への不満が高まっていた。

ここへ現れたのがアンドロニコス一世である。マヌエル一世のいとこで、長く各地を放浪していた人物である。都に入って摂政となり、ラテン人の虐殺を許し、少年皇帝を殺して自ら帝位についた。さらに、その未亡人となった十二歳の王女を妻にしている。

アンドロニコス一世は貴族を疑って次々に処断した。コムネノス家が築いた一族の網を、その一族の一人が内側から切り裂いたことになる。一一八五年、都の民衆に捕らえられ、市中で引き裂かれて死んだ。

家が崩れたあと

帝位はアンゲロス家へ移った。だが一族で帝国を運営する仕組みは、内側から壊されたあとには戻らなかった。皇帝の座をめぐる争いが続き、一二〇四年、第四回十字軍がコンスタンティノープルを攻め落とす。ビザンツ帝国は一時消滅した。

最後に残った枝

興味深いのはその先である。アンドロニコス一世の孫たちが、黒海の南岸にトレビゾンド帝国を建てた。大コムネノス家と称し、小さな領土で交易に頼りながら生き延びた。

コンスタンティノープルが一四五三年にオスマン帝国に落ちたあとも、この国はまだ残っていた。滅んだのは一四六一年である。ローマ帝国を名乗る国として最後に残ったのは、粛清をおこなった皇帝の枝であった。

家系図で見ると、コムネノス家は横に大きく広がった家である。称号を配るために枝を増やし、その枝が互いに争った。そして本流が消えたあと、いちばん外側の枝が最も長く生き残った。

縁者を数える帝国

コムネノス家の統治を支えたのは、誰が皇帝とどうつながっているかという情報であった。称号も領地も婚姻の位置で決まるので、宮廷の人々は互いの系図を正確に知っていなければならない。アンナ・コムネネの著作に人の縁が細かく書き込まれているのは、それが当時の政治の言語だったからである。

この仕組みには限界もあった。世代が進むと縁者は増え、配れる称号と土地は増えない。アレクシオス一世の代には身内で足りた要職が、三代目には余った縁者を生む。アンドロニコス一世が貴族を粛清したのは、その余りが不満の源になっていたからでもある。