記事

テューダーの継嗣:ヘンリー八世の三人の子とステュアートへの移り

ヘンリー八世は男子の跡継ぎを得るために六度結婚し、離婚を認めないローマ教会から国ごと離れた。それだけのことをして残った子は三人である。三人とも順に王位に就き、三人とも子を残さなかった。テューダー朝は三代で終わり、王位はヘンリー八世が継承から外しておいたはずの姉の血筋、スコットランドのステュアート家へ渡る。

兄の死から始まる

薔薇戦争を終わらせたヘンリー七世は、エリザベス・オブ・ヨークとのあいだに四人の子を育てた。長男のアーサー、姉のマーガレット・テューダー、次男のヘンリー八世、妹のメアリー・テューダーである。

跡継ぎはアーサーだった。スペインからキャサリン・オブ・アラゴンを妃に迎えたが、結婚の翌年、一五〇二年に十五歳で没する。次男のヘンリーが跡継ぎになり、一五〇九年に即位すると、兄の未亡人をそのまま妻に迎えた。スペインとの同盟を保つためである。

この結婚が、のちに二十年以上を費やす問題の入り口になる。

男子が生まれない

キャサリンとのあいだで育ったのは娘のメアリー一世だけだった。ヘンリー八世は、兄の妻を娶ったことが罪であり結婚は無効だと主張し、ローマに認めさせようとした。認められないまま一五三三年にアン・ブーリンと結婚し、翌年には国王を英国教会の首長と定める法を通す。

イングランドがローマから離れたのは、教義の対立からではない。継嗣問題の副産物である。

ところがアンが生んだのもまた娘で、のちのエリザベス一世だった。アンは一五三六年に処刑される。次のジェーン・シーモアが一五三七年に男子のエドワード六世を生み、産後に死んだ。

六度の結婚で育った子は三人、母はそれぞれ違う。図ではヘンリー八世に配偶者の線を引いていないが、三人の子の母はこの順に別人である。

三人が順に立つ

一五四七年、ヘンリー八世が没し、九歳のエドワード六世が立った。プロテスタントの改革を進めたが、一五五三年に十五歳で病没する。

死の直前、エドワードは王位をジェーン・グレイへ譲る書き付けを作らせた。ジェーンはヘンリー七世の妹メアリーの曾孫にあたり、プロテスタントである。だがこの継承は九日で崩れ、カトリックのメアリー一世が即位した。

メアリー一世は三十七歳での即位である。スペインのフェリペ二世と結婚したが子はできず、一五五八年に没した。次に立った異母妹のエリザベス一世は、四十四年在位して、生涯結婚しなかった。

なぜ誰も子を残さなかったか

エドワードは若すぎ、メアリーは即位が遅すぎた。エリザベスが結婚しなかった理由については諸説あるが、政治の面だけを見れば理由はある。

女王が結婚すれば、夫の家が国政に入る。メアリー一世がフェリペ二世と結婚してスペインの影響を招き、国内の反発を買ったのは、すぐ前の代の出来事だった。結婚しないことは、外国にも国内の一派にも王位を渡さない選択でもある。

そのかわり、ヘンリー八世が教会まで割って得ようとした後継が、孫の代を待たずに尽きた。

姉の血筋

ヘンリー七世の二人の娘は、それぞれ外へ嫁いでいる。姉のマーガレットはスコットランド王ジェームズ四世へ、妹のメアリーはイングランド貴族のチャールズ・ブランドンへ嫁いだ。

ヘンリー八世は遺言と法で、スコットランド系を継承から外し、妹メアリーの子孫であるグレイ家を優先させていた。外国の王が入ってくることを避けるためである。ジェーン・グレイが担がれたのも、この定めがあったからだった。

ところが一六〇三年にエリザベス一世が没したとき、グレイ家の側はすでに使えなくなっていた。残っていたのは、マーガレットの曾孫にあたるスコットランド王ジェームズ一世である。

一六〇三年

ジェームズはスコットランド王ジェームズ六世として即位したまま、イングランド王ジェームズ一世を兼ねた。二つの王国が同じ王を戴く同君連合である。のちの連合王国はここから始まる。

ジェームズの母はメアリー・ステュアートで、一五八七年にエリザベス一世が処刑を裁可した相手だった。処刑された女王の子が、その王位を継いだことになる。

遺言より系図

ヘンリー八世の遺言は法として定められていた。それでも守られなかった。系図をたどってもっとも近い者が継いだのである。

薔薇戦争のときは、系図の読み方が二通りあったために答えが決まらず、戦場で決めるほかなかった。テューダーの終わりには、系図の答えが一つしか残っていなかった。だから王の遺言のほうが押し切られた。

娘を他国へ嫁がせることは、家の外へ出すことではない。資格を持ったまま外へ置くことである。ヘンリー七世が娘をスコットランドへ嫁がせたのは同盟のためだったが、百年後にその婚姻が王位を運んだ。婚姻は同盟の道具であると同時に、継承の経路でもあり続ける。