アレクサンドロスの帝国のうち、いちばん広い部分を受け継いだのがセレウコス朝である。小アジアからインドの境まで、大小の民族と都市を抱えた。この帝国を削っていったのは、外の敵よりも王家の内側の争いであった。王位を主張できる枝が複数あり、そのつど外の勢力が招き入れられた。
セレウコス一世はアレクサンドロスの部将である。紀元前三二四年、スサでおこなわれた集団の婚礼で、ソグドの貴族の娘アパマを妻とした。マケドニア人の将にアジアの妻をあてる、アレクサンドロスの融和の政策によるものである。
多くの将はのちにこの妻を離縁したが、セレウコスは離さなかった。生まれた子がアンティオコス一世であり、以後の王はみなこの人の子孫である。セレウコス朝の王は、初代からペルシア系の血を引いていたことになる。
セレウコス一世は晩年、デメトリオスの娘ストラトニケを妻に迎えた。ところが子のアンティオコスがこの継母に恋をし、病に倒れる。医師エラシストラトスは、脈が乱れるのが彼女の姿を見たときだけだと気づき、王に告げた。
セレウコス一世は、妻を子に譲った。後世よく描かれた場面である。政略の面から見れば、王家の縁を薄めずに次の代へ渡す判断でもあった。
セレウコス一世は前二八一年、小アジアで勝ちを収めた直後に、身を寄せていたプトレマイオス・ケラウノスに殺された。アレクサンドロスの部将のうち最後まで生き残った人の最期である。
この帝国には中心がなかった。エジプトのプトレマイオス朝はナイルという一つの軸を持ち、マケドニアのアンティゴノス朝は本国を持つ。セレウコス朝はシリアのアンティオキアとメソポタミアのセレウキアを両方の都とし、東はイラン高原、西は小アジアへ広がっていた。
王が東にいれば西が離れ、西にいれば東が離れる。この構造のもとで、王位を争う枝が現れると、地方の総督や都市は都合のよい側を選べた。
東方はやがて手を離れる。インドの境はマウリヤ朝へ譲られ、イラン高原にはパルティアが興り、バクトリアではギリシア系の総督が独立した。
アンティオコス三世は東方を巡って諸侯を服属させ直し、大王と呼ばれた。前二世紀の初め、小アジアからギリシアへ手を伸ばしたところで、ローマとぶつかる。
前一九〇年、マグネシアで敗れた。アパメイアの和約で小アジアの領土を失い、多額の賠償を負い、象と艦隊を差し出した。王の子の一人は人質としてローマへ送られた。この子がのちのアンティオコス四世である。
賠償金を集めるために神殿の宝を取り立てるようになり、王は各地の神域と対立する。アンティオコス三世自身、神殿を襲った先で殺された。
兄セレウコス四世の死後に立ったアンティオコス四世は、ギリシア風の文化を帝国の統一の軸にしようとした。エルサレムの神殿にゼウスの祭壇を置き、ユダヤの律法を禁じた。
起きたのがマカバイの反乱である。ユダヤは事実上独立し、以後セレウコス朝の南の側面はここで開いたままになった。ローマに西を削られ、パルティアに東を削られ、南にも敵を作ったことになる。
ここから先の百年は、王家の内戦の記録になる。セレウコス四世の子デメトリオス一世の系統と、アンティオコス四世の系統が争い、それぞれの子や孫がまた争った。
争う者は必ず外の力を借りた。プトレマイオス朝は候補者に娘を嫁がせて支援し、ローマは弱い側に肩入れして帝国を分けたままにした。王を名乗る者が同時に二人、三人いる時期が続く。都市はそのつど門を開ける相手を選び、傭兵は金を出す側についた。
前六三年、ポンペイウスがシリアへ入り、王朝を廃して属州とした。争う王が多すぎて、併合を止める力がどこにも残っていなかった。
セレウコス朝の系図は、上のほうは一本の線で下り、アンティオコス三世のあたりから下へ向けて幾筋にも割れる。割れた枝はどれも王を名乗れる位置にあり、どれも決定的には勝てない。
継承の決まりを持たない家が広い領土を抱えると、争いは領土の数だけ長引く。オスマン帝国が兄弟殺しで、ムガル帝国が内戦でこの問題に答えを出したのに対し、セレウコス朝は答えを出せなかった。系図が下へ広がるにつれて、地図の上の領土は狭くなっていった。
この王朝の系図が読みにくいのは、名前が四つしかないからである。セレウコス、アンティオコス、デメトリオス、アレクサンドロス。父と子が同じ名を持ち、いとこどうしも同じ名を持つ。番号で区別するのは後世の史家の仕事であり、当時の碑文や貨幣にはそこまで書かれていない。
名前を継ぐことは、正統を主張することでもあった。争う者はみな、王朝の名を名乗って貨幣を打った。同じ名の王が同時に複数いる状態は、系図の混乱というより、正統が複数あることの表れである。
偽の王子を名乗る者まで現れた。アレクサンドロス・バラスはアンティオコス四世の子と称して立ち、プトレマイオス朝の支援を得て一時は王位についている。血筋が正統を与える制度は、血筋を偽る者にも道を開く。