一七一四年から一八三七年まで、イギリス王はドイツのハノーファー選帝侯を兼ねていた。同じ人が二つの国を治める同君連合である。それが一八三七年に解けたのは、戦争や条約ではなく、二つの国で継承の決まりが違ったからであった。
イングランドでは一七〇一年の王位継承法によって、カトリックの者を王位から除いた。その結果、亡命したステュアート家の男子ではなく、ジェームズ一世の娘エリザベスの子孫であるハノーファー選帝侯家に順番が回ってきた。
一七一四年、アン女王が没してジョージ一世が即位する。英語をほとんど話さず、在位中も度々ハノーファーへ帰っていた。以後、ジョージ二世、ジョージ三世、ジョージ四世、ウィリアム四世と、五代にわたって二つの位が一人の頭に載る。
ジョージ三世には十五人の子があった。世継ぎに困る家には見えない。ところが長男のジョージ四世には、正嫡の子が娘のシャーロット一人しかいなかった。
一八一七年、シャーロットは出産のさなかに亡くなる。子も死産であった。次の世代が誰もいないことが、この一件で明らかになる。当時ジョージ三世の息子たちは中年に達し、多くが正式な結婚をしていなかった。
ここから王子たちが急いで結婚した。四男のケント公エドワードは五十歳を過ぎてザクセン=コーブルク家の娘と結婚し、一八一九年に娘を得た。ヴィクトリアである。
一八三〇年にジョージ四世が没し、弟のウィリアム四世が継いだ。ウィリアム四世にも正嫡の子は育たなかった。一八三七年に王が没したとき、イギリスの王位は十八歳のヴィクトリアに渡った。
ハノーファーは違った。こちらはドイツの領邦であり、男子がいるかぎり女子は継げないという決まりが働いていた。ヴィクトリアには叔父たちがまだ生きている。よってハノーファー王位は、ジョージ三世の五男エルンスト・アウグスト(カンバーランド公)へ渡った。
同じ日に、一人の家から二つの位が別々の人へ分かれたことになる。百二十三年続いた同君連合はここで終わった。
イギリスでは、この分離をむしろ歓迎する声があった。エルンスト・アウグストは強い保守派として知られ、選挙法改正にも反対していた人物である。イギリス王位から遠ざかったことは、議会政治の側からすれば都合がよかった。
ヴィクトリアの側からしても、大陸の領邦を抱えないことで、イギリス王が海外の紛争へ引きずり込まれる筋が一つ減った。ハノーファーを守るために大陸で戦うという、十八世紀に何度もあった構図が消えた。
エルンスト・アウグストの跡は子のゲオルク五世が継いだ。一八六六年の普墺戦争で、ハノーファーはオーストリア側についた。プロイセンは勝ち、ハノーファー王国を併合する。ゲオルク五世は亡命し、王国は消えた。
ドイツへ分かれた枝は三十年で行き止まりになり、イギリスへ残った枝は世界の四分の一を治める帝国になった。同じ日に分かれた二つの位の行き先が、これほど違ったことになる。
ヴィクトリアはザクセン=コーブルク=ゴータ家のアルバートと結婚したため、その子エドワード七世からは家名が夫の側のものになった。ハノーヴァー朝はヴィクトリア一代で終わる。
さらに第一次世界大戦のさなか、ドイツ風の家名を嫌う世論を受けて、一九一七年にウィンザーへ改められた。ドイツから来た家が、二百年かけてドイツの名を捨てたことになる。
ジョージ三世の十五人の子は、系図の上では豊かな広がりに見える。だが正嫡の孫まで下ると、線はほとんど途切れている。王族に生まれても、身分に釣り合う相手との正式な結婚を求められれば、子が生まれない枝は増える。
一八三七年の分離も、その細い線の残り方に決められた。ヴィクトリアが男子であれば、二つの位はそのまま一人の頭に載り続けたはずである。イギリスとハノーファーがいつ分かれるかは、家系図のどこに男子が残っていたかで決まった。
ハノーファーは、もとブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領の一部である。一六九二年に選帝侯の位を得て帝国の中で格が上がり、ナポレオン戦争のあと一八一四年に王国となった。イギリス王がハノーファー王を兼ねる形は、このときからの二十三年だけである。
一方のイギリスでは、王がドイツの領邦を持つことがしばしば厄介であった。大陸で戦端が開けば、ハノーファーを守るためにイギリスの兵と金が動く。議会はこれを繰り返し批判している。同君連合の解消は、その意味では長年の懸案が片づいたということでもあった。