足利尊氏は弟の直義とともに幕府を開いた。二人で役割を分け、尊氏が武士の棟梁として恩賞と人事を、直義が裁判と行政を受け持つ。その二人が争ったのが観応の擾乱である。南北朝が五十六年も続いた理由の半分は、南朝が強かったからではなく、北朝の側が割れていたからである。
幕府の始まりは、尊氏と直義の分担で成り立っていた。尊氏は御家人との主従関係を握り、直義は所領の裁判や法度を担う。武力と統治を二人で分けた形である。
兄弟で分けるやり方は珍しくない。頼朝と義経は失敗し、毛利は本家と両川で成功した。足利は最初うまく回り、途中で壊れた。分けること自体ではなく、分けたあとに調整する仕組みがあるかどうかが違いを生む。
壊れた直接の原因は、尊氏の執事だった高師直である。師直は戦で功を上げた武士に恩賞を厚く与える立場にあり、旧来の所領の秩序を守ろうとする直義と衝突した。
新しく手柄を立てた者に報いるか、もとの持ち主の権利を守るか。どちらも幕府には必要で、しかし両立しない。二人の対立は個人の不仲ではなく、幕府が抱えた矛盾がそのまま人の形をとったものである。
一三四九年、師直が兵を集めて直義を失脚させた。直義は出家する。図の右の根に高師重と師直・師泰を置いてあるのは、この争いが足利家の内側だけで起きたのではないからである。
翌年、直義は京を脱して挙兵し、南朝に降った。北朝を立てた側の一人が、南朝の下に入ったことになる。一三五一年、直義方が勝って高師直と師泰は殺された。
ところが今度は尊氏が南朝に降り、直義を追討する側に回る。兄も弟も、それぞれの都合で南朝に付いた。
南朝はこのあいだ、どちらか一方を認めるだけで戦況を動かせた。実力では劣っていたのに五十年以上続いたのは、北朝の側の争いが南朝に価値を与え続けたからである。倒すべき相手が二つに割れていれば、弱い側にも役目が生まれる。
擾乱の経過を並べると、短い期間に立場が何度も入れ替わっている。一三四九年に師直が直義を追い、一三五〇年に直義が南朝へ降り、一三五一年に尊氏も南朝へ降り、同じ年に南朝がいったん京を占めた。
武士たちはそのたびに、どちらに付くかを選び直した。選び直すたびに、付いた側から所領の保証を取る。争いが長いほど取り分が増えるので、決着を急ぐ理由が誰にもない。南北朝の戦が長引いた理由の一つは、ここにある。
もう一つ、話を複雑にしたのが直冬である。尊氏の子でありながら父に認められず、叔父の直義の養子になった。
擾乱では直義方に立ち、直義の死後も九州や中国で尊氏と戦い続けた。父と子が敵になり、その子は叔父の養子である。図で直冬を尊氏の下に置いてあるのは血の線がそうだからで、実際の立場は直義の側にあった。姓と血と立場がずれるところに、この時期の複雑さが出ている。
一三五二年、直義は鎌倉で没した。尊氏に毒殺されたとする説が伝わる。
幕府を開いた二人のうち一人が、もう一人の手で終わったことになる。以後、幕府の政務は尊氏と義詮の父子に集まり、二頭の形は消えた。
擾乱は幕府の権威を大きく傷つけた。守護はどちらに付くかを選ぶ立場になり、選ぶ過程で自分の取り分を増やしていく。国内の年貢の半分を守護に与える半済令が広まったのも、この時期である。
将軍家が割れると、下の者の取り分が増える。応仁の乱で同じことが繰り返された。足利の一門は幕府を作るときには強みだったが、割れたときには弱みがそのまま出る。
図の左の根を見ると、貞氏の下に尊氏と直義が並び、その下で義詮と直冬がまた分かれている。二代続けて、兄弟か父子が敵になった。開いたばかりの幕府が抱えた割れ目としては、深いほうである。基氏が鎌倉へ下って東国を預かるのも同じ代の話で、足利家は三方向へ分かれながら幕府を運営することになった。
権力を二人で分ける形は、日本で何度も試されている。持統と草壁のように親子で分けた例、毛利のように本家と両川で分けた例、徳川のように宗家と御三家で分けた例がある。
続いたものには共通点がある。分けた先の一方が、明らかに下に置かれていることである。両川は本家を支える立場であり、御三家は将軍を出す候補であって将軍ではない。上下がはっきりしていれば、争う余地は小さい。
尊氏と直義は、そこが曖昧だった。武力と統治という別種の力を対等に持ち、どちらが上か決めていない。対等な二人は、意見が割れたときに調停する者がいない。観応の擾乱が示したのは、分け方そのものではなく、分けたあとの上下を決めておかなかったことの代償である。