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靖難の変:叔父が甥から帝位を奪った

一三九九年、明の皇帝が叔父に位を奪われた。祖父が孫に譲った皇位を、その孫の叔父が武力で取り返した形である。皇帝の子が多すぎたことと、少なすぎたことが、同時に原因になっている。

二十六人の息子

朱元璋は貧農から身を起こして明を建てた。子は二十六人いる。成人した者を各地の王に封じ、とくに北の国境沿いには兵権を持つ王を置いた。モンゴルへの備えである。

一族で国を固めるやり方は珍しくない。足利尊氏が子を鎌倉へ下したのも、徳川家康が御三家を置いたのも、同じ発想である。違うのは規模で、朱元璋は二十人以上を同時に配った。

太子が先に死ぬ

長男の朱標は温厚で、家臣の信望も厚かった。ところが一三九二年、父より先に死ぬ。朱元璋は六十四歳だった。

ここで朱元璋は、次男以下の息子ではなく、朱標の子である朱允炆を皇太孫に立てた。嫡長子の系統を守る原則に従った選択である。

だが結果として、二十歳前の孫の上に、兵を持つ叔父が二十人以上並ぶ形ができた。

削藩

一三九八年に朱元璋が没し、朱允炆が建文帝として即位した。二十一歳である。

側近の献策で、叔父たちの力を削りにかかった。一年のうちに五人の王を廃し、うち一人は追い詰められて焼身自殺している。朱橚もこのとき廃された一人である。

若い皇帝が叔父を次々に処分すれば、残る叔父は次は自分だと考える。とくに警戒されていたのが、北平にいた第四子の朱棣、燕王だった。

靖難

一三九九年、朱棣が挙兵した。掲げた名分は靖難、すなわち君側の奸を除いて国難を靖んじる、である。皇帝に逆らうのではなく、皇帝を惑わす臣下を除くのだ、という建て前だった。

朱元璋が定めた祖訓に、朝廷に奸臣があれば親王が兵を挙げてよいという条文がある。朱棣はこれを根拠にした。祖父が作った法が、孫を倒す根拠になったのである。

三年の戦いののち、一四〇二年に南京が落ちた。建文帝は宮中の火のなかで行方が分からなくなる。焼死したとも、僧になって逃れたとも伝えられ、決着していない。

記録を書き換える

朱棣は永楽帝として即位した。建文の四年間の年号を消し、洪武三十五年として、自分が父から直接継いだ形に整えている。

建文帝に仕えた者は徹底して処断された。方孝孺は即位の詔を書くことを拒み、一族と門人まで含めて処刑されたと伝えられる。

永楽帝は自分の母を、朱元璋の正妻である馬皇后だと称した。嫡出の子として位を継いだ形にするためである。実際には別の妃の子だという説が有力で、いまも確定していない。

勝ったあとに系図を整えるのは、ノルマンディー公ウィリアムがしたことと同じである。血縁は決定の根拠であると同時に、決定のあとに用意される説明でもある。

削藩は続いた

皮肉なことに、永楽帝は即位すると自分も削藩を進めた。藩王から兵権を取り上げ、封地に住まわせて政治に関わらせない。建文帝がやろうとしたことを、勝った側が完成させたのである。

以後の明では、皇族は俸禄を受けるだけの存在になった。国を一族で固めるやり方は、この一度の内乱で放棄されている。皇位は朱高熾朱瞻基と、永楽帝の直系で継がれていった。

一族で固めることの限界

血の近い者を各地に置けば、外から攻められにくい。だが血が近いということは、その者に皇位の資格があるということでもある。

足利尊氏が置いた鎌倉公方は、四代目で将軍家と戦った。朱元璋が置いた藩王は、二代目で皇帝と戦った。どちらも同じところで壊れている。

朱元璋は嫡長子の原則を守るために孫を選んだ。原則としては正しい。だがその原則は、二十人以上の叔父が兵を持っているという状態を前提にしていなかった。制度は、二つ以上のことを同時に満たせないことがある。

五十四年後の朝鮮

ほとんど同じことが、五十四年後の朝鮮で起きている。一四五三年の癸酉靖難で、首陽大君が甥の端宗から実権を奪い、二年後に王位に就いた。世祖である。端宗はのちに死を賜っている。

先王が幼い孫や子に位を渡し、力を持つ叔父がそれを覆す。明でも朝鮮でも、同じ形が続けて起きた。嫡長子の順を守ろうとするほど跡継ぎが若くなり、叔父との年齢差が開くからである。

原則を厳しく守ることが、その原則を破る動機を用意する。血の順番を決める規則は、決めただけでは働かない。

北京へ

永楽帝は一四二一年に都を南京から北京へ移した。自分の本拠であり、北の防衛線に近い。以後の明清の都はここに定まる。

鄭和の南海遠征も永楽帝の事業である。武力で位を得た皇帝が、外へ向けて明の威を示す必要を持っていたという見方がある。

靖難の変が変えたのは皇帝一人ではなかった。都の位置、皇族の扱い、対外政策のすべてが、この内乱を境に変わっている。