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北畠親房と顕家:南朝を支えた村上源氏

南朝を最後まで支えたのは、武家ではなく公家の家だった。北畠親房は村上源氏の流れをくむ公卿で、その子顕家は十六歳で陸奥へ下り、軍を率いて京まで攻め上っている。公家が兵を動かすのは異例である。そしてこの家は、南朝の正しさを説く書物まで残した。図の左が北畠、右が後醍醐の皇子で、二つは陸奥への下向でつながる。

村上源氏という家柄

北畠家は、村上天皇の皇子である具平親王の子孫にあたる。臣籍に降りて源の姓を得た枝で、久我・中院といった家に分かれ、そのひとつが北畠になった。

皇族から出た家なので、公家の中でも家格が高い。後醍醐天皇の側近には、親房のほかに万里小路宣房と吉田定房がおり、三房と呼ばれた。天皇の親政を支える顔ぶれである。

皇子を預かる

建武の新政で、後醍醐は皇子たちを各地へ送った。陸奥へ向かったのが義良親王、のちの後村上天皇である。まだ六歳だった。

その補佐として付けられたのが、親房と顕家である。顕家は陸奥守に任じられ、多賀城に府を置いた。皇子を旗に立て、公家が国司として現地を治める形になる。武家の棟梁が幕府を開くのとは、まったく違うやり方だった。

奥州は、二百年前に藤原清衡が平泉を開いた土地である。中央から遠く、独自に力を蓄えられる。後醍醐がそこへ皇子と公家を送ったのは、鎌倉に代わる東の拠点を作るためだった。

二度の上洛

一三三五年に足利尊氏が背くと、顕家は奥州の兵を率いて西へ向かった。京を回復し、尊氏を九州へ追い落としている。二度目は一三三八年で、鎌倉を落として西へ進んだ。

しかし味方は伸びきり、和泉の石津で高師直の軍に敗れて戦死した。二十一歳である。死の直前に後醍醐へ奏上した文書が残っており、恩賞を濫発することや、天皇が自分で動きすぎることを正面から諫めている。

書くという戦い方

親房は東国へ渡り、常陸の小田城などで転戦しながら神皇正統記を書いた。一三三九年ごろのことである。

内容は、神代から後村上までの皇統をたどり、なぜ南朝が正統なのかを説くものである。武力で決まらない争いを、系図の正しさで決めようとした書物だと言える。三種の神器を持つ側が正統だという主張も、ここで整理された。

系図が主張になる

持明院統と大覚寺統は、もとをたどれば後嵯峨天皇の二人の子である。血の近さで優劣はつかない。だからどちらが正しいかを言うには、系図の読み方のほうを決めなければならない。

親房がしたのは、系図に順序と意味を書き込む作業である。誰が誰の子かという事実は動かないが、その並びをどう読むかは書く者が決められる。系図が史料であると同時に主張でもあるのは、こういう場面である。

伊勢に残る枝

三男の顕能は伊勢の国司になり、そのまま土着した。子の顕泰、孫の満雅と続き、南北朝が合一したあとも幕府と争っている。

伊勢の北畠は戦国まで大名として残った。最後の当主である具教は織田信長に攻められ、信長の子である信雄を養子に入れることで家名を残す形になり、やがて殺された。公家から出た家が、二百五十年かかって武家の作法で終わったことになる。

顕信と奥州

次男の顕信は兄の死後も陸奥で戦い続けた。南朝の勢力が消えたあとも降らず、出羽で没したと伝えられる。

三人の子が、東国と伊勢と奥州へ分かれてそれぞれ戦った。親房が一つの家で三方面を持ったことになる。公家の家が武家のようにふるまえたのは、皇子を預かる立場があったからである。

図の読み方

図の左の枝は四代で終わっているように見えるが、顕能の下は戦国まで続いた。右の枝は皇子ひとりで、こちらが南朝の皇統になる。

二つの枝をつないでいるのは血ではない。皇子を預かるという役目だけである。北畠が南朝を支え続けたのは、その役目を家の存在理由にしたからだった。系図の上で交わらない二本が、実際にはいちばん強く結ばれていた。

武家なら婚姻でつなぐところを、この家はつながなかった。公家が皇族の外戚になるのは藤原氏の道である。北畠が選んだのは、外戚ではなく後見という位置だった。血で結ばずに支えたぶん、南朝が消えたあとも家は残っている。

神皇正統記は、南朝が滅びたあとも読まれ続けた。江戸の学者が皇統をどう数えるかを論じるとき、この書物が土台になる。明治になって南朝を正統とする決定が出たのも、この系譜の読み方が生き残っていたからである。書いた本人は戦に負けたが、書き残した系図の読み方のほうは、五百年たってから国の決定として採用されている。刀で決まらなかったことが、五百年たってから筆のほうで決まったことになる。系図は、書いた者が死んだあとも働き続ける。負けた側の書いた系図が、勝った側の子孫に読まれ続けた。