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応仁の乱:将軍家と管領家の家督争いが重なった

応仁の乱は一つの争いではない。将軍家の跡目争いと、管領を出す家の跡目争いが同じ時期に重なり、それぞれの当事者が細川勝元と山名宗全という二人の実力者に付いた。図の根を二本にしてあるのは、少なくとも二つの家が同時に割れていたからである。

将軍家の跡目

八代将軍の足利義政には長く男子がなかった。そこで弟を寺から還俗させ、義視として後継に立てる。ところがその翌年、妻の日野富子義尚が生まれた。

実子と弟のどちらが継ぐか。図の下に義尚と義視が並んでいるのがその対立である。義政が先に弟を立てておきながら実子を得たという順序が、そのまま争いの形になった。

日野富子という外戚

義尚の母の日野富子は、実子を将軍にするために山名宗全へ近づいたとされる。将軍家の跡目に母方の実家が絡む形は、蘇我氏から続く型と同じである。日野家は代々足利将軍家へ妻を出しており、外戚として幕府に食い込んでいた。

富子は乱の最中に米や銭を貸して財を成したとも伝えられ、乱を長引かせた者として語られることが多い。ただ跡目争いの当事者として見れば、実子を立てようとしただけともいえる。責められ方に、外戚が果たしていた役割の大きさが出ている。

管領家の跡目

同じことが管領を出す家でも起きていた。畠山家では、持国が実子の義就に継がせようとし、弟の持富の子である政長がこれに対抗する。斯波家でも似た争いが起きていた。

管領は将軍を補佐する職である。これを出す家が割れれば、幕府の中枢がそのまま割れる。図の右の根を見ると、畠山も兄弟の子どうしで対立しており、将軍家と同じ形をしていることが分かる。

守護大名の上に乗った幕府

室町の幕府は、将軍が全国を直接治める形ではない。各国に守護を置き、その守護大名の連合の上に将軍が乗っていた。細川も山名も畠山も斯波も、その有力な守護大名である。

連合の上に乗る将軍は、連合が割れれば立てなくなる。跡目争いが幕府そのものの危機に直結したのは、この構造のためである。図の二本の根は、支え合っていた二つの層が同時に割れたことを示している。

二人の実力者

細川勝元と山名宗全が、それぞれ別の側を支えた。争いの中身はどの家も跡目だが、支える側の対立が全国の大名を巻き込んでいく。一四六七年、京で戦が始まった。

跡目争いは本来、家の中の話である。それが全国の戦になったのは、どちらに付くかで自分の家の跡目も左右されると、諸国の大名が考えたからだった。争いは伝染する形をしていた。

十一年かけて、決まらなかった

戦は一四七七年まで続き、京の市街は焼けた。決着らしい決着はない。義政は将軍を義尚に譲り、義視は京を離れた。

ところが義尚が若くして没すると、将軍になったのは義視の子の義稙である。争った二人の子が、代わるがわる将軍の座に着いたことになる。十一年の戦を経て、跡目は結局どちらとも決まらなかった。

何が終わったか

乱のあいだ、大名は京に留まるのをやめて領国へ帰った。幕府の命令は届かなくなり、各地では守護の代理や家臣が実権を握る例が続く。下の者が上の者を越えていく時代が、ここから始まる。畠山の争いは乱が終わったあとも河内で続き、決着しないものが各地に残った。

応仁の乱を戦国時代の始まりとする見方は、この点に立っている。乱そのものが時代を変えたというより、跡目を決められないまま終わったことが、決め方そのものを変えた。以後は、武力で取った者が継ぐという決め方が広まっていく。

鎌倉の北条氏は、主君の家が絶えても型を残して続いた。足利将軍家は逆で、家も系図の線も残ったまま、中身だけが抜けていく。跡目が決まらないことは、跡目を失うことよりも長く尾を引いた。

誰が継ぐかを誰が決めるか

三つの家督争いは、決め方が定まっていなかった点で共通している。長男が継ぐという規則があれば、義視も政長も出番はない。実子を優先するという規則があれば、義尚で決まる。どちらの規則もないまま、当主の意向と周りの力関係で決まっていた。

南北朝の皇位も同じだった。両統迭立という取り決めを幕府が持ち込んだのは、決め方がなかったからである。決め方がないところでは、決める力を持つ者が外から入ってくる。皇位には幕府が入り、将軍家には守護大名が入った。

応仁の乱の十一年は、その外から入った者どうしが正面から戦った期間である。細川と山名が戦っているあいだ、当の跡目は誰にも決められなかった。決め方を持たない家は、決める力を他人に預けることになる。そして預けた先が二つに割れたとき、家は自力で立てなくなる。乱が十一年も続いたのは、止める権限を誰も持っていなかったからでもある。将軍にも管領にも、その力は残っていなかった。