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イサベルとフェルナンド:二つの王冠が並んだまま結ばれた

スペインという国は、一度の結婚から始まったとよく言われる。ただしイサベルとフェルナンドの結婚は、二つの王国を一つにしたのではない。カスティーリャとアラゴンは最後まで別々の国であり、王が夫婦であるという関係だけで結ばれていた。

父が誰かという争い

カスティーリャ王エンリケ四世には、長く子がなかった。二番目の妃を迎えてようやく生まれたのが娘のフアナである。ところが宮廷では、この子の父は王ではなく、寵臣ベルトラン・デ・ラ・クエバであるという噂が流れた。フアナは「ベルトランの娘」と呼ばれた。

王の異母妹イサベルを担ぐ貴族たちは、この噂を根拠に王女の継承権を否定した。エンリケ四世は一度イサベルを跡継ぎと認め、のちに撤回し、また揺れた。

王位が血で決まる制度では、血を疑うことが最も強い武器になる。スパルタでデマラトスが廃されたのと同じ理屈が、十五世紀のカスティーリャでも使われた。

秘密の結婚

イサベルは自分で相手を選んだ。アラゴン王フアン二世の子フェルナンドである。エンリケ四世はポルトガル王やフランスの王族との縁組を望んだが、イサベルはこれを退けた。

二人は再従兄妹の関係にあり、教会の許しが必要であった。ところが許可は間に合わない。そこで偽造した教皇の書状を用いて、一四六九年、バリャドリードで秘密裏に婚礼を挙げた。イサベル十八歳、フェルナンド十七歳である。

継承戦争

一四七四年にエンリケ四世が没すると、イサベルはただちに女王を宣した。これに対し、王女フアナはポルトガル王アフォンソ五世と結婚してカスティーリャの王位を主張した。アフォンソ五世はフアナの母の兄、つまり彼女の叔父である。

四年にわたるカスティーリャ継承戦争を経て、一四七九年に和が結ばれた。フアナは修道院へ入り、王位を放棄した。同じ年、フェルナンドの父が没してアラゴン王位を継ぐ。二つの王冠が夫婦の手に揃った。

二つの国のまま

ここで重要なのは、二つの国を合併しなかったことである。カスティーリャの法はカスティーリャの、アラゴンの法はアラゴンの議会が決める。貨幣も税も別、関税もあった。イサベルはカスティーリャの女王、フェルナンドはアラゴンの王であり、互いの国では配偶者にすぎない。

夫婦は「タント・モンタ」という標語を用いた。どちらも同じだけの重さである、という意味に取れる言葉である。二人が対等であることを示しながら、二つの国の別も保つ形であった。

スペインが一つの法のもとに統一されるのは、これから二百年以上のちである。

一四九二年

夫婦の治世で最も知られた年が一四九二年である。イベリア半島に残っていたイスラムの最後の王国グラナダが降り、七百年余りの再征服が終わった。同じ年、ユダヤ教徒に改宗か退去を命じる勅令が出され、そしてコロンブスの船が西へ向かった。

二人は教皇からカトリック両王の称号を得た。信仰の統一と領土の統一を同時に進めたことへの称号である。

跡継ぎが消えていく

家の続きという点では、この夫婦は恵まれなかった。五人の子があった。

唯一の男子フアンは一四九七年、十九歳で没した。長女イサベルはポルトガル王妃となり、一四九八年に出産で死んだ。その子ミゲルは二年後に二歳で没する。三年のあいだに、跡継ぎの候補が三人続けて消えた。

相続は次女のフアナに移った。フアナはハプスブルク家のフィリップ美公に嫁いでいる。つまり、二つの王冠はこの婚姻を通じて、外の家へ渡ることが決まった。

孫が受け取る

フアナは夫の死後、心を病んだと言われ、幽閉のうちに生涯を終えた。実際に二つの王冠を受け取ったのは、その子カール五世である。ネーデルラントで育ち、スペイン語をほとんど話さない若者であった。

カスティーリャとアラゴン、そしてイタリアの領地と新大陸が、ハプスブルク家のものになる。イサベルとフェルナンドが築いたものは、孫の代でヨーロッパ規模の帝国の一部に組み込まれた。

五人目の子カタリナはイングランドへ嫁ぎ、ヘンリー八世の最初の妃となった。この結婚の解消をめぐる争いが、イングランド国教会の成立につながる。

家系図で見ると

この家の系図は、中央で一度きれいに合流し、その下でほとんど途切れている。二つの王国を結んだ線は太いが、次の世代へ渡す線が細い。

結婚で国を結ぶやり方には、必ずこの弱点がついてくる。結んだ本人たちに跡継ぎが残らなければ、結んだものごと外へ出ていく。ハプスブルク家がスペインを得たのは、戦ってでも交渉してでもなく、この三年間に三人が死んだからであった。

娘たちの婚姻

五人の子のうち四人が娘であり、その婚姻はいずれも外交であった。長女とその妹はポルトガルへ、次女はハプスブルク家へ、末娘はイングランドへ嫁いだ。フランスを東西から囲む配置である。

血で国を囲むという考え方は、当時のヨーロッパで最も安価な戦略であった。ただし、これは相手の家にも同じ数の権利を与える。娘を送るたびに、その子孫がこちらの王位を主張する筋が一本増える。イサベルとフェルナンドが敷いた四本の線のうち一本が、実際にスペインの王冠を持ち去った。