サヴォイア家は千年続いた。ヨーロッパの王家のなかでも古い家である。もとは大した領地を持たない伯家であったが、一つだけ確かな資産があった。アルプスの峠である。フランスとイタリアを結ぶ道を押さえていたことが、この家の歴史のほとんどを説明する。
十一世紀、ウンベルト白手伯がサヴォイア地方の伯となった。アルプスの西側と東側にまたがる領地で、モンスニ峠などの主要な道が含まれる。
峠を持つ家は、周りの大国にとって邪魔にはできない相手である。軍を通すにも、商人を通すにも、その許しが必要になる。サヴォイア家は、この立場を売って生き延びた。フランスに付き、神聖ローマ帝国に付き、スペインに付き、そのつど有利な側へ移った。
信頼される家柄ではなかった。だが小さな家が大国のあいだで残るには、この身の振り方しかなかった。
十六世紀の半ば、サヴォイア家は領地のほとんどをフランスに占領された。取り戻したのはエマヌエーレ・フィリベルトである。この人は一五六三年、都を峠の西のシャンベリから、東のトリノへ移した。
地図の上での小さな移動が、家の向きを変えた。それまでこの家はフランス語を話し、フランスの宮廷に近い家であった。以後はイタリアの側の君主として振る舞うようになる。三百年のちにイタリアを統一する家の性格は、この遷都から始まっている。
サヴォイア家が王になったのは、大国のあいだで側を選び続けた成果である。スペイン継承戦争では、はじめフランス側に付き、途中で同盟側へ移った。一七一三年のユトレヒト条約で、シチリア王国を得て王を名乗る。
そのシチリアは七年後、オーストリアとの交換でサルデーニャ島に替えられた。豊かな島を貧しい島と交換したことになる。それでも王の称号は残った。以後この国はサルデーニャ王国と呼ばれ、実際の中心はトリノにあった。
称号を手に入れたヴィットーリオ・アメデーオ二世の娘マリー・アデライードは、フランスのブルゴーニュ公ルイに嫁いでいる。その子がルイ十五世である。フランス王の母を出したことは、この家の格が上がったことの証しであった。
十九世紀の初め、本家の男系が細くなった。ヴィットーリオ・アメデーオ三世の三人の子が続けて王位につき、いずれも跡継ぎとなる男子を残さなかった。一八三一年にカルロ・フェリーチェが没して、本家は絶える。
王位はカリニャーノ家へ移った。十七世紀の初め、カルロ・エマヌエーレ一世の子トマス・フランチェスコから分かれた枝である。二百三十年ものあいだ傍系として続いていた家から、王が出たことになる。
立ったのがカルロ・アルベルトである。一八四八年に憲法を与え、議会を置いた。イタリアの諸国のなかで、この憲法だけが革命の反動を生き延びた。
子のヴィットーリオ・エマヌエーレ二世の代に、宰相カヴールが外交を、ガリバルディが遠征を担い、イタリア半島の諸国が次々にサルデーニャ王国へ併合された。一八六一年、イタリア王国が宣言される。
このとき王は、名を改めなかった。イタリア王としては最初の王であるから一世を名乗ってもよいところを、サルデーニャ王としての番号のまま二世を通した。イタリアは新しく作られた国ではなく、サヴォイア家の国が広がったものである、という主張がここに出ている。
イタリア王国は八十五年で終わった。ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世の長い治世に、二度の世界大戦とファシズムの二十年が入る。王は一九二二年にムッソリーニを首相に任じ、その体制を最後まで容認した。
一九四三年に首相を解任し、一九四六年に子のウンベルト二世へ位を譲ったが、遅すぎた。同じ年の国民投票で共和政が選ばれ、ウンベルト二世は在位一か月余りで国を出た。サヴォイア家の男子は、憲法によって長くイタリアへの入国を禁じられた。
サヴォイア家の系図は、千年にわたって細く長く続く。目立つ人物は少ない。歴史の主役になったのは最後の百年だけである。
続いた理由は、峠という動かない資産と、立場を変えることをためらわない身の軽さであった。そして本家が絶えたときには、二百年前に分かれた枝が残っていた。長く続く家には、たいていこうした控えの枝がある。
イタリアを統一した王が、二百三十年前に分かれた傍系の出であることは、この家の性格をよく示している。中心にいた枝は絶え、脇にいた枝が最後の仕事をした。峠のそばで待ち続けた家の、最後の一手であった。
この家の系図が読みにくいのは、ヴィットーリオ、アメデーオ、カルロ、エマヌエーレという四つの名を、順序を入れ替えて組み合わせ続けたからである。ヴィットーリオ・アメデーオ、カルロ・エマヌエーレ、ヴィットーリオ・エマヌエーレ、カルロ・アルベルト。どれも似ていて、番号も別々に振られている。
名を受け継ぐことは、家の連続を示す作法であった。小さな家が大国のあいだで残るには、自分が古い家であることを見せ続ける必要がある。読みにくい系図は、その努力の跡でもある。