一五五四年、武田・北条・今川の三家が同盟を結んだ。武田の甲斐、北条の相模、今川の駿河から甲相駿三国同盟という。結び方が特徴的で、三家が輪になるように娘を嫁がせている。図の三本の根に立つ跡取りが、それぞれ隣の家の娘を妻にしているのがそれである。
嫁いだ先は次のとおりである。
一方向ではなく輪にしたところが要点である。二家の同盟なら娘を一人送れば済むが、三家では誰か一つが余る。輪にすれば全員が嫁を出し、全員が嫁を受け取る。貸し借りが均等になり、どこか一家だけが下に立つこともない。
三家はいずれも隣り合っており、互いに敵になり得る位置にいた。同盟を結べば背後を気にせず、それぞれ別の方向へ兵を出せる。
武田は信濃から上杉へ、北条は関東へ、今川は西の織田へ向かった。実際、この同盟が続いた十数年で三家はそれぞれ勢力を広げている。背中を預け合う仕組みとしては、よく働いた。
三家の仲介をしたのは、駿河の善徳寺の僧だったと伝えられる。三人の当主が一堂に会したという話も残るが、確かなことは分からない。
はっきりしているのは、三つの婚姻がほぼ同じ時期に成立している点である。順に結んでいけば、先に結んだ二家が残る一家に対して優位に立つ。同時に結べば、その差が出ない。輪の形は、結ぶ順番の問題も同時に解いている。
武田信玄はこの前後に父の信虎を追放して当主となり、北条氏康も父の氏綱から代を継いだばかりだった。図の三本の根が、どれも一代さかのぼった父から始まっているのは、この同盟がそれぞれの家の代替わり直後に結ばれたからである。新しい当主にとって、隣国との安全は先に確保しておきたいものだった。
一五六〇年、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれる。跡を継いだ氏真は西へ出る力を失い、今川の勢いは止まった。
弱った隣国は、同盟相手ではなく獲物になる。武田信玄は一五六八年に駿河へ攻め込んだ。同盟は破れ、今川氏真は北条を頼って逃れる。婚姻で結ばれていたことは、攻める理由を減らさなかった。
このとき武田家の中で起きたことが、婚姻同盟の性格をよく示している。信玄の嫡男の義信は今川義元の娘を妻としており、駿河攻めに反対した。義信は幽閉され、のちに死ぬ。妻の嶺松院は今川へ帰された。
同盟のために結ばれた縁が、同盟を破るときの障害になる。信玄は障害のほうを取り除いた。図で義信の下に線が伸びていないのは、この結果である。
義信が廃されたことで、跡を継いだのは勝頼になった。長篠で敗れ、武田を滅ぼすことになる子である。婚姻を切った判断が、家の跡目まで変えたことになる。
北条氏康は今川を助ける側に回り、武田と断交した。氏政の妻の黄梅院は信玄の娘なので、実家と婚家が敵になる。黄梅院は甲斐へ帰され、まもなく没した。
三つの婚姻のうち二つが、同盟の破綻とともに解かれている。婚姻は同盟の証しだが、同盟が切れれば婚姻も切れる。証しであって、支えではなかった。
氏政と黄梅院のあいだに生まれた氏直は、武田信玄の孫にあたる。同盟が崩れたあとも、この血は残った。氏直は北条の最後の当主となり、一五九〇年の小田原攻めで豊臣に降る。
三家はいずれも戦国の終わりまでに大名としての地位を失った。輪にして結んだ婚姻は、三家が同時に強い時期を長くしたが、一つが崩れたときに残り二つを守る力までは持たなかった。
戦国の同盟は、たいてい二家のあいだで結ばれる。三家を輪にする形は珍しい。図に描くと、根が三本立ち、それぞれの跡取りの横に他家の娘がいる。三本の根は線でつながっていないのに、三つの家が関係している状態が読める。
家系図は血の線を描く道具だが、婚姻の線を入れると、こうした横のつながりも見えてくる。三国同盟の図は、縦の線より横の線のほうが多くを語る例である。
浅井三姉妹の記事で見たとおり、戦国の婚姻は同盟の道具として期待されたほどには働かなかった。三国同盟も同じで、結んでいるあいだは効き、切るときには邪魔になり、切ったあとは何も残さない。残ったのは氏直に流れた武田の血だけだった。婚姻でつないだ関係は、つないだ本人たちの都合で切れる。血のほうは切れない。図に描けるのが血の線だけなのは、そのためでもある。輪を組んだ三家のうち、江戸まで大名として残った家は一つもない。今川氏真の子孫が高家として幕府に仕えたのが、辛うじて残った線である。