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細川と山名:応仁で争った二つの家のその後

応仁の乱で東西に分かれて戦った細川勝元と山名宗全は、どちらも室町の有力な守護大名だった。しかし乱のあと、二つの家はまったく違う道をたどる。細川は八百年続き、山名は削られていく。図の三本の根が、そのまま二つの家の行方である。

細川 — 足利の分家から管領へ

細川氏は足利義氏の子の義季から始まる足利の分家である。南北朝の争乱で四国に地盤を築き、細川頼之が三代将軍の足利義満を補佐して管領となった。幼い将軍の後見という位置は、摂関や執権と同じ形をしている。

以後、細川の本家は管領を出す家として幕府の中枢に座り続けた。頼元、満元、持之と続き、その子が細川勝元である。図の左の根が、この管領の系統にあたる。

山名 — 六分一殿

山名氏は新田氏の分かれで、源義国の子の義重の系統から出た。足利とは遠い親戚にあたる。

山名時氏が南北朝の争乱で勢力を広げ、一族で十一か国の守護を占めるに至った。当時の国の数がおよそ六十六なので、その六分の一を持つという意味で六分一殿と呼ばれる。

これを警戒した足利義満は、一族の内紛につけこんだ。一三九一年の明徳の乱で山名氏清が敗死し、山名の守護国は三か国ほどに削られる。図で時氏の下に氏清と時義が並んでいるのは、この二人が別々の側に立ったからである。一門を分けて弱らせるやり方を、義満は山名で試している。

応仁の乱 — 削られた側の巻き返し

時義の子の時煕、その子が山名持豊で、出家して宗全と名乗る。宗全は明徳で失った勢力を取り戻そうとし、幕府の中で細川勝元と対立した。

応仁の乱は、この二人がそれぞれ別の家の跡目争いを支えるかたちで始まる。争いの中身は畠山家や将軍家の跡目だが、動かしていたのは細川と山名の対立だった。両者は乱の途中の一四七三年に相次いで没する。当事者が死んでも戦が四年続いたことに、この乱の性格が出ている。

細川本家の終わり

勝元の子の細川政元は、将軍を挿げ替えるほどの実力を持った。しかし実子がなく、三人の養子を迎えたため、その死後に家が割れる。本家は跡目争いで消耗し、やがて家臣の三好氏に実権を奪われた。管領を出した家は、戦国のうちに事実上滅んでいる。

跡目を決めずに複数の養子を置いたことが、直接の原因だった。応仁の乱で他家の跡目争いを利用した家が、同じ形で崩れている。

傍流が生き残る

ところが細川の名は絶えなかった。傍流から出た細川藤孝が織田信長に仕え、その子の忠興は明智光秀の娘の玉を妻とする。玉は本能寺の変ののち幽閉され、のちに洗礼を受けてガラシャと呼ばれた。

忠興は関ヶ原で東軍に付き、子の忠利の代に肥後熊本の大名となる。以後、細川家は明治まで熊本を治めた。近代には侯爵となり、一九九三年には細川護熙が内閣総理大臣に就いている。足利の分家として始まってから、八百年家が続いたことになる。

図の中央の根が短いのは、この枝が本家ではないからである。それでもいちばん長く続いたのは、この短い根から下へ伸びる線だった。

家の名を継ぐということ

本家が滅んでも細川という家が残ったのは、名字が土地に結びついていたからでもある。細川の名は三河の細川郷に由来し、そこから出た枝はすべて細川を名乗る。本家が絶えれば、別の枝が細川を代表する。

同じことが山名にも起きている。氏清の家は明徳の乱で滅んだが、時義の家が山名を継いだ。家名は一本の線ではなく、複数の枝が分け持つ名である。図の根が分かれていても同じ姓が並ぶのは、そのためである。

応仁のあと、誰が国を取ったか

乱のあと、細川も山名も守護としての力を失っていく。国を実際に押さえたのは、守護の代理を務めていた家や現地の国人だった。細川の家臣の三好氏、山名の家臣の垣屋氏や太田垣氏がそれにあたる。

仕えていた側が主家を越える形は、この時期に全国で起きた。室町の守護大名の家系図と、戦国の大名の家系図がほとんど重ならないのは、この断絶のためである。図に描いた二つの家は、どちらもその断絶の手前で力を失っている。

二つの家が示すもの

山名は最盛期に十一か国を持ちながら、義満に削られ、応仁で消耗し、戦国のうちに但馬の小さな家へ戻った。江戸時代は交代寄合として残る。強くなりすぎた家は、強くなった時点で標的になる。

細川は本家が滅んだあと、傍流が別の主君に仕えて生き延びた。家を残したのは、いちばん強かった枝ではない。

家系図を長く取ると、この差が見える。ある時点でいちばん大きい枝が、いちばん長く続く枝とはかぎらない。

応仁の乱を語るとき、細川と山名は対等な二人の実力者として並べられる。しかし図を五百年ぶんに引き伸ばすと、二つの家の姿はまるで違う。同じ絵の中に置いても、切り取る長さを変えれば結論が変わる。系図をどこからどこまで描くかは、それ自体が一つの主張である。