後醍醐天皇は多くの皇子をもうけ、その皇子たちを各地へ配した。倒幕のあいだ、これは有効だった。皇子が現地に立てば、そこに朝廷の代理ができる。だが建武の新政が始まると、同じ配置が新政を割る線になる。皇子が多いということは、資格を持つ者が多いということでもあった。
中世の朝廷では、位を継がない皇子は寺に入るのがふつうだった。門跡と呼ばれる寺の長になり、俗世の争いから外れる。後醍醐の子の護良親王も宗良親王も、はじめは天台座主である。
ところが後醍醐が倒幕を企てると、この二人は還俗して兵を率いた。寺は僧兵を抱え、荘園を持つ。皇子が寺に入ることは、武力と経済に手が届くことでもあった。後醍醐はそこを使った。
一三三一年の元弘の変で後醍醐が捕らえられ隠岐へ流されたあとも、護良親王は吉野や熊野で兵を集め続けた。令旨を各地へ出し、楠木正成と呼応している。一三三三年に六波羅と鎌倉が落ちたのは、この持久のうえに足利高氏と新田義貞が動いたからである。
新政が始まると、護良は征夷大将軍に任じられた。武士を束ねる座を、皇子が自分で取ったことになる。
護良は足利尊氏を警戒した。武士の支持を集める尊氏を放置すれば、いずれ幕府が再建されると見ていた。後醍醐は逆に尊氏を用いた。
一三三四年、護良は謀反を企てたとして捕らえられ、鎌倉へ送られた。翌年、北条時行が鎌倉を襲った中先代の乱のさなか、足利直義の命で殺されている。新政が倒れるより前に、新政をつくった皇子が消えていた。
後醍醐は他の皇子も各地へ送っている。
朝廷は自前の武力を持たない。皇子を置き、現地の武士を補佐に付けることで、その地を朝廷の側へ引き寄せる仕組みである。鎌倉幕府が守護を置いたのと同じ場所に、皇子を置いたと言ってもよい。
ただし補佐に付いた武士が強ければ、皇子はその武士の旗になる。陸奥の義良は北畠の、鎌倉の成良は足利直義の旗だった。
一三三五年の中先代の乱を鎮めた足利尊氏は、そのまま鎌倉に留まって恩賞を独自に配りはじめた。翌年には京へ攻め上り、湊川で楠木正成を破って光明天皇を立てる。後醍醐は吉野へ移った。
このとき皇子たちは各地に散っていた。散っていたから南朝はすぐには潰れず、散っていたからまとまりもしなかった。
尊良親王と恒良親王は、新田義貞とともに北陸へ落ちた。恒良は後醍醐から譲位を受けたとも伝えられる。一三三七年に金ヶ崎城が落ちて尊良は自害し、恒良は捕らえられて翌年に没した。
懐良親王は一三四八年に九州へ入り、菊池氏を頼って勢力を広げた。一三六一年には大宰府を押さえ、九州の大半が南朝の側に立つ。
このころ明が日本へ使いを送り、懐良を日本国王良懐と呼んで倭寇の禁圧を求めた。中国から見れば、日本を代表するのは京の将軍ではなく九州の皇子だった時期がある。一三七二年、今川了俊が大宰府を奪い返した。九州の南朝はここから細っていく。
宗良親王は信濃の伊那に長く留まった。歌人としても知られ、南朝の歌を集めた新葉和歌集を撰している。武力では大きな成果を残していないが、東国に南朝の名を残し続けた。
一三三九年、後醍醐は吉野で没した。跡を継いだのは、陸奥から呼び戻された義良親王、すなわち後村上天皇である。皇子を各地へ配った当人が、そのうちの一人を呼び戻して跡目に据えたことになる。
南朝の皇位はそのあと長慶天皇、後亀山天皇と続いた。一三九二年、足利義満の仲介で後亀山が京へ戻り、三種の神器を後小松天皇へ渡して南北朝は合一する。両統迭立の約束は守られず、以後の皇統は北朝の側で続いた。
各地へ配った皇子のうち、位に就いたのは義良だけである。他の皇子はそれぞれの地で南朝の旗を立てたまま終わった。
後醍醐が皇子を配ったのは、朝廷が全国を直接押さえるための策だった。倒幕の段階では、令旨を出せる皇子が各地にいることが決定的に効いている。
だが新政が始まると、同じ配置が別の意味を持つ。皇子はそれぞれの地で武士と結びつき、その地の利害を背負う。中央の方針と現地の判断が食い違えば、皇子ごとに立場が分かれる。護良と尊氏の対立も、根はここにある。
南朝が五十年以上続いたのは、各地に皇子がいたからである。そして南朝がついに京を取り返せなかったのも、各地に皇子がいたからだった。分けた枝は折れにくいが、束ねることもできない。