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ヴァロワ朝の断絶:カトリーヌの三人の王子

アンリ二世とカトリーヌ・ド・メディシスには十人の子が生まれ、うち四人の男子が育った。それでもヴァロワ家は三十年で絶えた。三人が続けて王となり、三人とも子を残さなかったからである。

事故から始まった

一五五九年、アンリ二世は宮廷の馬上槍試合で折れた槍を目に受け、十日後に没した。四十歳であった。前年に結んだ和約を祝う催しの最中の事故である。

跡を継いだフランソワ二世は十五歳。妃はスコットランド女王メアリー・ステュアートで、政はその母方のギーズ家が握った。フランソワ二世は在位一年五か月で没する。次に立ったのが十歳のシャルル九世であり、母カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となった。

ユグノー戦争

このころフランスでは改革派(ユグノー)が広がり、貴族の家がカトリックと改革派に分かれていた。ギーズ家がカトリックの側、ブルボン家とコリニー提督が改革派の側である。王家はそのあいだに立った。

一五六二年から、断続的に三十年以上続くユグノー戦争が始まる。カトリーヌは一方を潰すのではなく、両方を釣り合わせて王権を保つ道を取った。和議と再戦がくり返された。

サン・バルテルミの虐殺

一五七二年八月、カトリーヌは娘マルグリットを改革派のアンリ・ド・ナヴァール(ブルボン家)に嫁がせた。両派の和解を示す婚礼であり、パリには改革派の貴族が集まった。

婚礼の数日後、コリニー提督が襲われ、それを合図にパリ中で改革派の殺害が始まった。サン・バルテルミの虐殺である。数日のうちに数千人が死んだ。花婿のアンリは改宗を誓って命を保ったが、以後は事実上の監視下に置かれた。

シャルル九世は二年後、二十三歳で没した。子は娘一人であった。

三人目の王

次に立ったのがアンリ三世である。ポーランド王に選ばれて赴任していたところ、兄の死を知って抜け出し、帰国して即位した。妃を迎えたが子はできなかった。

弟のフランソワは両派のあいだを行き来し、ネーデルラントの反乱に関わり、イングランドのエリザベス一世との結婚も取り沙汰された。その弟が一五八四年に没する。ここで、アンリ三世に子がなければ王位が誰へ行くかが決まった。妹の夫、改革派のアンリ・ド・ナヴァールである。

三アンリの戦い

カトリックの側はこれを認めなかった。フランス王が異端であってはならないという理由で、ギーズ公アンリを担ぐ神聖同盟が動いた。王アンリ三世、ナヴァール王アンリ、ギーズ公アンリの三人が争う三アンリの戦いである。

一五八八年、アンリ三世はギーズ公を城館へ呼び出して殺させた。パリは王に背き、王はナヴァール王と手を組んでパリを囲む。一五八九年八月、アンリ三世は修道士ジャック・クレマンに刺され、死の床でナヴァール王を後継と認めた。ヴァロワ家はここで絶えた。

遠い傍系

アンリ・ド・ナヴァールがフランス王アンリ四世になる。その血筋は、ルイ九世の六男ロベール・ド・クレルモンにさかのぼる。ヴァロワ家とは十代ほど離れた傍系である。それでも男系でつながっているという一点で、王位は彼のものになった。

女系を認めないという原則は、百年戦争のときはイングランド王を退けるために使われた。同じ原則が二百五十年後、こんどは遠い親戚を王座へ引き上げる根拠になったことになる。アンリ四世は一五九三年にカトリックへ改宗し、翌年パリへ入った。一五九八年のナントの王令で改革派に信仰の自由を認め、戦争を終わらせる。

母が残したもの

カトリーヌ・ド・メディシスは一五八九年一月、息子アンリ三世より半年ほど早く没した。三人の王の母として三十年間政に関わり、王家を守るためにあらゆる手を使った。虐殺の責任も、長く彼女に帰されてきた。

家系図の上では、その努力は報われていない。王位を継いだ三人の息子はいずれも子を残さず、娘マルグリットも子を産まなかった。ヴァロワ家は絶え、王位は娘の夫の家へ渡る。

もっとも、血をつなぐという意味でなら、彼女が残した線は一本ある。娘エリザベートがスペイン王フェリペ二世に嫁いで生んだ娘たちの子孫は、ヨーロッパの王家に広がった。フィレンツェの商人の家の血は、ヴァロワ家が絶えたあとも残ったことになる。

十人の子

カトリーヌは結婚から十年ものあいだ子を産めず、そのことで宮廷から侮られた。その後は十人を生んでいる。うち三人が王となり、一人がスペイン王妃、一人がロレーヌ公妃となった。数だけでいえば、王家として十分すぎる子の数であった。

それでも家が絶えたのは、育った男子が四人とも子を残さなかったからである。子の数と家の続きは別の問題であった。同じころのイングランドでも、ヘンリー八世の三人の子が誰も子を残さずテューダー家が絶えている。十六世紀のヨーロッパでは、子に恵まれた王家がそろって行き止まりに来た。