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県犬養三千代の二つの家:橘諸兄と光明子は異父の兄妹

奈良時代の政界は、橘氏と藤原氏の対立で動いた。左大臣の橘諸兄と、光明皇后を後ろ盾にした藤原仲麻呂が争い、諸兄の子の奈良麻呂は謀反に倒れる。ところがこの対立の両側は、もとをたどれば一人の女性から出ている。県犬養三千代である。三千代が二度結婚したこと、それだけで奈良の半世紀の骨格が決まった。

宮中に仕える家

県犬養氏は、朝廷の門を守り宮中に仕えることを職とする家である。大臣を出す家格ではない。県犬養三千代は県犬養東人の娘で、天武天皇の朝廷に出仕したときはまだ十代だったとみられる。

三千代の力は家格ではなく、宮中に居続けたことから来ている。天武、持統、文武、元明、元正、聖武と、六代の朝廷を通して仕えた。とくに元明天皇と元正天皇の信任が厚く、幼い首皇子、のちの聖武天皇の養育にも関わっている。誰を次に立てるかを決める場に、女官として最初から居合わせる立場だった。

一度目の結婚

三千代の最初の夫は美努王である。敏達天皇の子孫にあたる皇族で、栗隈王の子とされる。三千代はここで三人の子を生んだ。葛城王、佐為王、そして牟漏女王である。

葛城王と佐為王は、父が皇族なので王を名のる。皇統からは遠いが、皇族の子である。この時点では、三千代は皇族の妻であり皇族の母だった。

二度目の結婚

美努王が大宰帥として筑紫へ下ったのち、三千代は藤原不比等の妻になった。不比等は中臣鎌足の子で、律令を組み立て、娘の宮子を文武天皇に入れて外戚の地位を築いていた男である。

この結婚で生まれたのが光明子、のちの光明皇后である。三千代にとっては四人目の子だが、父が違う。図では三千代に配偶者の線を引いていないが、諸兄・佐為・牟漏女王の父は美努王、光明子の父は不比等である。橘諸兄と光明子は、母を同じくし父を異にする兄妹にあたる。

不比等の側から見れば、この結婚は宮中の中枢へ通じる線を得ることだった。三千代は天皇のそばに常にいる。不比等が制度をつくり、三千代が人事の場に居る。この組み合わせは、藤原氏が朝廷に根を張るうえで決定的だった。

橘という姓

七〇八年、三千代は元明天皇から橘宿禰の姓を賜った。即位の宴で杯に浮かべた橘の実にちなむと伝えられる。功のあった女官に与えられた栄誉であり、家の姓として与えられたものではない。

ところが七三六年、葛城王と佐為王が、母の姓を継ぎたいと願い出た。許されて二人は橘諸兄橘佐為になる。父方の皇族の身分を離れ、臣下として母の姓を名のったのである。

姓は父から子へ渡るものである。母から子へ渡った例はきわめて少ない。しかも渡した相手は皇族の子であり、皇族をやめてまで受け取っている。橘氏という家は、一人の女官の名から始まった家だった。

皇后になった妹

七二九年、光明子が聖武天皇の皇后に立った。皇族でない家の娘が皇后になるのは、当時の朝廷にとって前例のないことである。記紀は葛城磐之媛を臣下から出た最初の皇后として伝えるが、それは伝承の時代の話であり、律令の下では先例にならない。

立后の半年前に長屋王が滅んでいる。長屋王は天武の孫で、皇后は皇族から出すべきだという立場に立っていた。その障害が消えたところで立后が実現した。

三千代は七三三年に没しているので、娘が皇后になるところまでは見ている。宮中に仕える家の娘が、天皇の后の母になった。

なお聖武の母の宮子も不比等の娘だが、その母は三千代ではない。聖武から見れば、光明子は母の異母妹にあたる。藤原氏は天皇の母と妻の両方を出したことになる。

兄が政権を執る

七三七年、天然痘が都を襲い、不比等の四人の子が相次いで死んだ。藤原氏の首脳が一度に消え、政権の中心に立ったのが橘諸兄である。七四三年には左大臣になった。

このとき、皇后は異父の妹であり、左大臣は異父の兄である。朝廷の頂点の二つの席を、三千代の子が占めていた。三千代が没して十年、二度の結婚の帰結がここに出そろっている。

兄妹の家が割れる

均衡は長く続かなかった。藤原武智麻呂の子の藤原仲麻呂が、光明皇后の信任を得て台頭する。七四九年、聖武が譲位して光明子が皇太后になると、皇太后の家政機関である紫微中台が置かれ、仲麻呂がその長官になった。皇太后の権威を後ろ盾に、太政官と並ぶ権力の場ができたのである。

諸兄はしだいに退けられ、七五六年に辞し、翌年の正月に没した。同じ年の七月、子の橘奈良麻呂が仲麻呂を除こうとして発覚し、捕らえられて獄中で死んだ。橘奈良麻呂の変である。

異父の兄妹から出た二つの家が、次の代で正面から衝突した。しかも衝突の一方の力の源は、妹が皇太后であることだった。

一人の女から出た二本の線

三千代は天皇の位に就いていないし、大臣にもなっていない。制度の上ではただの女官である。それでも、奈良時代の政界の主要な線は、ほとんどこの人を通っている。

橘氏は三千代の姓から始まった。光明皇后は三千代の娘である。娘の牟漏女王藤原房前に嫁ぎ、その子から藤原北家の嫡流が続いていく。房前も不比等の子で、母は三千代ではない。三千代から見れば、自分の娘を継子に嫁がせたことになる。橘も、藤原の南家と争った側も、のちに摂関家となる北家も、たどればこの一人に行き着く。

外戚の型は、家が娘を天皇に入れることで働く。三千代の場合は逆で、一人の女性が二つの家に子を残したことで、二つの家が同時に立ち上がった。血をどちらへ渡すかではなく、どちらにも渡してしまったのである。奈良の政争が身内の争いの形をとり続けたのは、そのためだった。