一〇世紀の前半、坂東で最初に大きく割れた武士の一族が桓武平氏である。平将門の乱は朝廷への反逆として語られるが、戦った相手のほとんどは同じ家の者だった。討った側の平貞盛は将門の従兄弟であり、二人の祖父はどちらも平高望である。図の一段目を見れば、乱の顔ぶれがひとつの家の中で揃うことがわかる。
高望は桓武天皇の曾孫にあたり、皇族の身分を離れて平の姓を賜った。上総介として東国へ下り、任期が終わっても京へ戻らず、そのまま土着している。子の国香は常陸、良兼は上総、良将は下総、良文は相模の村岡を本拠にした。ひとつの家が坂東のあちこちに散ったことになる。
京の官職では上へ行けない家が、地方で土地と兵を持つ。武士の家の始まりは、たいていこの形をしている。
争いの発端は所領と、私的ないさかいだったと伝えられる。九三五年、将門は伯父の国香を攻めて討った。国香の妻は常陸の豪族源護の娘であり、良兼と良正も護の娘を妻にしていた。護の一族と結んだ叔父たちが、そろって将門の敵に回ることになる。
婚姻がどちらに付くかを決めている。この時代の家は、血のつながりの向きで敵味方が定まった。
将門は叔父たちとの戦に勝ち続けた。九三九年には常陸の国府を襲って印と鍵を奪い、下野・上野も落とす。関東の国々を押さえ、みずから新皇と称した。天皇の任じた国司を追って自分で国司を任じたのだから、これは私闘ではなく反逆になる。
新皇と称したことは、将門の側から見れば叔父たちとの私闘の延長だったのかもしれない。国司と結んだ叔父を討てば国府と敵対することになり、国府を落とせば次の国司を誰かが務めなければならない。一歩ずつ進んだ結果として、反逆の形ができあがっている。
朝廷は追討の命を出したが、実際に将門を倒したのは京から下った軍ではない。
九四〇年、平貞盛と下野の藤原秀郷が将門を討った。貞盛は将門に討たれた国香の子であり、将門とは従兄弟にあたる。当初は京にいて争いを避けようとしていたが、父を殺された以上は引けなかった。
乱は二か月ほどで終わる。朝廷の側から見れば反乱の鎮圧だが、家の側から見れば、祖父を同じくする孫たちの争いである。討った貞盛と秀郷は恩賞を受け、そこから家を伸ばした。
貞盛の子維衡は伊勢へ移り、伊勢平氏の祖になる。ここから正度・正衡・正盛・忠盛と続き、五代あとが平清盛である。院の武力となって太政大臣まで昇る家は、将門を討った側の枝から出ている。
貞盛の流れはもう一本ある。維将から維時、直方と続く枝で、鎌倉の執権北条氏はこの直方の子孫を称した。将門を討った家から、その平氏を滅ぼした幕府の実権者も出たことになる。
いっぽう相模に残った良文の子孫は、坂東に根を張った。子の忠頼から忠常が出て、その子孫が上総氏と千葉氏になる。忠頼のもう一人の子将恒は秩父氏の祖であり、そこから畠山と河越が分かれた。三浦・鎌倉・大庭も良文の流れとされる。坂東八平氏と呼ばれる家々である。
忠常は一〇二八年に房総で乱を起こし、源頼信に降った。この一件で源氏と坂東の平氏のあいだに主従の縁ができる。源頼朝が挙兵したとき集まった武士の多くは、この枝の子孫だった。将門から二百数十年後、良文の子孫たちは源氏の下で幕府を作る側に回る。
将門を討ったもう一人、藤原秀郷は下野の押領使で、藤原北家の流れを引きながら東国に土着した家である。乱の恩賞で下野守となり、武門の家として立った。
秀郷の子孫からは小山・結城・佐藤らが出る。奥州藤原氏の祖である藤原経清もこの流れとされ、鎌倉で御家人になった家も多い。将門を討った二人が、そのまま東国の武士の二つの源流になったことになる。将門の側に立った者は家を残せず、討った側の家系だけが記録として伸びていく。系図が勝者の記録になりやすいのは、こういう場面である。
将門の乱で坂東平氏は一度割れ、京へ向かう枝と坂東に残る枝に分かれた。京へ行った枝は太政大臣まで昇り、壇ノ浦で滅びた。坂東に残った枝は御家人として鎌倉に生き、中世を通じて続く。
どちらが勝ったかは、乱の時点では決まっていない。将門は反逆者として討たれ、貞盛は勝者として恩賞を得た。それでも二百年たてば、勝った側の本流は滅び、敗れた側の隣の枝が残っている。図の上のほうで枝が分かれたその形が、時間を置いてから効いてくる。一〇世紀の坂東で誰が誰と戦ったかは、二百年後に誰が幕府を開き、誰がそれを支えるかを、そこで半分決めていたことになる。同族が割れることは家の危機に見えて、じつは家を広げる形でもあった。