平安の武士は、地方から自然に湧いて出たのではない。天皇の子孫が臣下に降り、地方へ下って土地と兵を得たところから始まる[1][2]。皇族が増えすぎると朝廷の負担になるので、枝を切って姓を与え、臣籍へ移した。これを賜姓という。切られた枝のうち、桓武天皇から出たのが平氏、清和天皇から出たのが源氏である[1][2]。図の根が二本あるのは、武士の家が二つの天皇から別々に始まったからである。
桓武天皇の子の葛原親王、その子の高見王、さらにその子が平高望である[1]。高望は八八九年に平朝臣の姓を与えられ、八九八年に上総介として関東へ下った[1]。任が明けても都へ戻らず、子の国香・良兼・良将を連れたまま土着した[1]。中央の官職ではなく、東国の土地を選んだことになる。
良将が早くに没すると、その所領は伯父の国香と良兼が押さえた[3]。良将の子の将門は伯父たちと争い、争いは一族の内輪から国司との対立へ広がる。九三九年、将門は「新皇」を称して東国の独立を宣言した[3]。
将門を討ったのは、伯父国香の子の貞盛と、下野の藤原秀郷である[3]。同じころ西では藤原純友が乱を起こし、朝廷は東西で同時に武力を頼った[3]。
図の左を見ると、争ったのが従兄弟どうしだと分かる。良将の子と国香の子である。貞盛の子の維衡から伊勢平氏が出て、のちの清盛につながる[1]。
賜姓されただけでは武士にならない。都で高い官職に就けなかった皇孫が、地方の国司として下り、任が明けても戻らずに土地を開き、その土地を守るために武力を持つ。国司として来た者が、そのまま在地の領主になる。この道筋を早くに通ったのが高望であり、同じ道を通った家がいくつも東国に生まれた[1]。
朝廷から見れば、彼らは扱いやすい暴力だった。地方の反乱を鎮めるのに、都から兵を送るより現地の武士を使うほうが速い。将門を討ったのが官軍ではなく貞盛と秀郷だったことが、その端的な例である[3]。使えば使うほど、武士は自分たちが欠かせないことを知っていく。
清和天皇の第六皇子の貞純親王、その子の経基王が源姓を賜って源経基となった[2]。経基の子の満仲は摂関家に仕え、各地の受領を歴任して、摂津国多田に武士団をつくった[2]。平氏が土着から始まったのに対し、源氏は都の権門に仕えることから始まっている。
満仲の子で家は三つに分かれた[2]。
このうち頼信の家が東国へ伸びる。一〇二八年、房総で起きた平忠常の乱を頼信が平定した[2]。平氏の地盤だった東国に源氏が入る転機である。
頼信の子の頼義、その子の義家(一〇三九〜一一〇六)は、奥州で二度戦った[4]。前九年の役では安倍氏と戦い、出羽の清原氏の助けを得てこれを破る[4]。一〇八三年に始まった後三年の役は、朝廷が追討の官符を出さなかったため公の戦と認められず、私戦とされた[4]。義家は事後の承認を求めたが得られず、陸奥守を罷免されている[4]。
恩賞の出ない戦いに従った東国の武士へ、義家が私財で報いたと伝えられる。朝廷の外側で主従の結びつきが育っていた。
しかし源氏は続けて躓く。義家の次男の義親は乱行を告発されて隠岐へ流され、一一〇八年、追討使となった平正盛に討たれた[5]。正盛は白河法皇の側近として仕えた武士である[5]。源氏の棟梁の子を、院に仕える平氏が討つ。図の二本の根はここで交わり、以後の五十年は平氏が上がっていく。
源氏と平氏は、同じ賜姓皇族から出て、違う道を通った。平氏は東国に土着して力を蓄え、のちに伊勢へ移って院に近づく。源氏は都で摂関家に仕え、その足場から東国へ出た。どちらも天皇の子孫でありながら、天皇に仕える立場から始めている。この出自が、のちに彼らが朝廷を倒さず、朝廷の中で位を求めた理由になる。