記事

加賀前田家と将軍家:外様が縁組で生き延びた

江戸の大名で最も石高が大きかったのは、将軍家に次いで加賀の前田家である。百二十万石を三百年近く保った。豊臣の五大老を出した家で、関ヶ原では東西のどちらにも動ける位置にいた外様である。それが一度も改易されなかったのは、代々将軍家から妻を迎え続けたからだった。図の横に伸びる線が、そのまま家の保険である。

危うい立場

前田利家は豊臣秀吉と並ぶ位置にいた人で、秀頼の後見も託されていた。一五九九年にその利家が死ぬと、家康はすぐに前田へ嫌疑をかける。家康暗殺を企てたという疑いだった。

跡を継いだ利長は戦わない道を選び、母のまつを人質として江戸へ送った。芳春院である。十四年ものあいだ江戸に留め置かれた。人質を出すことは、その時点では屈服の証だが、江戸に身内を置くこと自体がのちの縁組の下地にもなる。

三歳の花嫁

利長には子がなかった。跡継ぎに立てたのは、腹違いの弟である利常である。一六〇一年、その利常に徳川秀忠の次女珠姫が嫁いだ。利常は十二歳、珠姫は三歳である。

人質を出す関係から、婚姻で結ぶ関係へ切り替えたことになる。人質は返せば終わるが、婚姻は次の代へ続く。しかも生まれた子は将軍の外孫になる。加賀の当主が将軍家の身内になれば、取り潰しの口実は立てにくい。

珠姫は三男五女を産み、二十四歳で死んだ。夫婦仲はよかったと伝えられる。

二代続けて迎える

利常と珠姫の子である光高には、三代将軍家光の養女大姫が入った。水戸徳川頼房の娘で、家光の養女として輿入れしている。

本当の娘がいなければ、養女を立ててでも縁を結ぶ。将軍家の側にも、大きな外様を身内にしておく利があった。図で二段続けて横線が引かれているのは、双方に理由があったからである。

光高は三十一歳で急死し、子の綱紀は三歳で家督を継いだ。祖父の利常が後見に付いて藩政を立て直し、綱紀は八十年近く藩主を務めることになる。

疑われないための工夫

利常は、大きな家であることの危うさをよく知っていた。鼻毛を伸ばして愚か者を装ったという逸話が残る。真偽はともかく、そう語られること自体が当時の緊張を示している。

領地を三つに分けたのも同じ考えによる。次男の利次に富山十万石、三男の利治に大聖寺七万石を分け、本家を減らした。分家を作れば宗家に跡継ぎがないときの備えにもなる。徳川の御三家と同じ発想を、外様の側が使ったことになる。

娘は宮家へ

娘の富姫は、八条宮智忠親王に嫁いだ。桂の別業を営んだ宮家である。

将軍家から妻を迎え、娘は宮家へ出す。上へは徳川、上へはもう一段の朝廷という二方向で縁を結んでいる。二百五十年後、明治の華族令のもとで旧大名の娘が宮家へ入るようになるが、加賀はそれをはるかに早く行っていた。

縁組がやめられない

以後の前田家も、しばしば将軍家や御三家から妻を迎えた。一度この形を作ると、途切れさせるほうが危ない。縁組をやめることは、身内でなくなることを意味する。

幕末に至るまで前田家は動かなかった。動けなかったとも言える。婚姻で得た安全は、動かないことと引き換えだった。

学問に向かう

綱紀は書物を集め、木下順庵や新井白石といった学者を招いた。加賀は天下の書府と呼ばれる。武で目立てば疑われるので、力の使い道が文に向いた面がある。

大きな外様が生き延びる道は、縁を結んで身内になり、そのうえで無害であり続けることだった。

図の読み方

この図は縦に細く、横に何本も線が出ている。当主の数は多くないのに、婚姻の相手は将軍家、宮家、御三家と広い。

家を守るために枝を伸ばす方向が、外様と将軍家では逆になる。徳川は自分の中に予備の枝を作った。前田は自分の外へ線を引いた。中に枝を持てない家は、外に縁を持つしかない。

毛利が吉川と小早川へ子を入れて一族を固めたのは、まだ戦う相手がいた時代の話である。天下が定まったあとの大名にできるのは、上と結ぶことだけだった。前田の系図に横線が多いのは、縦に伸びる余地がなくなった時代の家だからである。

同じことを島津も伊達も行った。将軍家から妻を迎え、娘を他の大名へ出し、身内の網の中に入る。江戸の泰平は、この網が全国に張られた状態でもあった。戦をしないと決めた社会で家を守る手段は、婚姻しか残っていない。

加賀が幕末まで動かなかったことを、意気地がないと見る向きもある。しかし三百年で一度も潰されなかった外様は、ほかにほとんどない。図の横線の数だけ、この家は動かない理由を増やしていったことになる。身を守るために結んだ縁が、同時にその家を動けなくする鎖にもなっていたということである。鎖であることを承知で、この家は縁を結び続けている。