摂関政治は、天皇の母方の親族が実権を握る仕組みである。藤原氏は娘を入れ、生まれた孫を位に就け、外祖父として朝廷に立った。院政はこれを裏返す。天皇の父、あるいは祖父が、家の長として政務を執る。母方から父方へ、権力の通り道が移った。その転換は後三条と白河の二代で起きている。
一〇六八年に即位した後三条天皇は、宇多天皇以来およそ百七十年ぶりに、藤原氏を母方に持たない天皇だった。母は三条天皇の娘の禎子内親王で、皇族である。
外祖父がいないということは、後見してくれる者がいないと同時に、遠慮すべき相手もいないということでもある。後三条は延久の荘園整理令を出し、摂関家の荘園も例外としなかった。記録荘園券契所を置いて証拠書類を検めさせ、根拠の立たない荘園を停止している。摂関家の経済の足元を、天皇の側から崩しにいった最初の例である。
摂関政治が長く続いたのは、藤原氏が代々娘を入れ続けられたからだった。裏を返せば、娘の生んだ子が立たなければ、その一代で仕組みは働かなくなる。後三条の即位は、その偶然が起きた場面である。
後三条は在位四年で子の白河天皇に譲位し、翌年に没した。白河は一〇八六年、在位十四年で、八歳の子に位を譲る。堀河天皇である。
このとき白河は三十四歳だった。位を降りたのに引退ではない。譲位した上皇として、幼い天皇の父の立場から政務を執り続けた。院政の始まりである。
なぜ位を降りたほうが強いのか。天皇には手続きがある。太政官があり、儀式があり、先例がある。上皇にはそれがない。院庁という私的な家政機関があるだけで、そこで決めたことがそのまま通る。制度の外へ出ることで、制度の縛りから自由になった。
白河が急いだ理由も系図に出ている。後三条には、白河のほかに実仁親王と輔仁親王という子がいた。母は源基子で、白河の母の藤原茂子とは違う。
後三条は白河のあとに実仁を立てるつもりだったと伝えられる。ところが実仁は一〇八五年に病没した。順から言えば次は輔仁である。白河はその翌年、まだ八歳の自分の子に譲位した。輔仁の順番を飛ばし、皇位を自分の子孫の側へ固定したのである。
譲位は退くことではなく、次を決めることだった。誰を立てるかを、生きているうちに自分の手で実行してしまう。院政の本質はここにある。
堀河が一一〇七年に没すると、五歳の鳥羽天皇が立った。白河にとっては孫である。祖父として、白河はさらに院政を続けた。
天皇の父あるいは祖父として家の長の座に立ち、皇位の決定権を握る者を治天の君と呼ぶ。位に就いている天皇とは別に、家長がいる。天皇家が一つの家として振る舞いはじめたということでもある。
白河は一一二九年に没するまで、四十三年にわたって院政を執った。堀河、鳥羽、崇徳の三代の天皇が、そのあいだに立っている。思いどおりにならないものは賀茂川の水と双六の賽と山法師の三つだけだと言ったと伝えられる。
院政を支えたのは、制度の外にある二つの資源である。
摂関家は天皇の母方であることが力の源だったので、その資産は官職と家の荘園に限られた。院は天皇の父であり家長であるという立場から、寄進を集め、武力を手元に置いた。のちに平氏が政権を取るまでの道は、この北面の武士から始まっている。
鳥羽は一一二三年、五歳の子に譲位した。崇徳天皇である。ところがこの子について、白河の子ではないかという噂が残った。鳥羽は崇徳を叔父子と呼んだと後世の書物は伝える。父の子であれば自分にとっては弟だ、という意味である。
真偽は確かめようがない。だが鳥羽がのちに崇徳を退位させ、寵愛した美福門院得子の生んだ子を近衛天皇として立てたこと、近衛が没したときも崇徳の子の重仁親王を飛ばして崇徳の弟を立てたことは記録に残る。立てられた弟が後白河天皇である。
治天の君が皇位を自由に動かせるということは、動かされた側に恨みが残るということでもある。一一五六年に鳥羽が没した直後、崇徳と後白河は兵を挙げて争った。保元の乱である。
摂関政治から院政への移行は、権力が藤原氏から天皇家へ戻ったという話ではない。権力の通り道が、母方の家から父方の家長へ移ったという話である。
外戚は他人の家である。父は同じ家の中にいる。同じ家の中へ決定権を置いたことで、藤原氏を通さずに皇位を動かせるようになった。そのかわり、争いも家の中で起きるようになる。父と子、兄と弟が、同じ家のなかで皇位を取り合う。保元の乱で天皇家が真っ二つに割れたのは、院政が家の内側へ権力を集めた結果だった。