十三代将軍の家定に子がなかった。次の将軍を誰にするかで幕府は割れ、決まったあと、その将軍のもとへ皇女が嫁ぐ。徳川と朝廷が血でつながる最後の場面である。図の根が三本あるのは、争った二人と嫁いだ側が、それぞれ別の家から出ているからである。
家定は病弱で、政務を執ることが難しかったと伝えられる。正室として島津家から篤姫が入っているが、子は生まれていない。
将軍に子がないことは、それだけで政治問題になる。誰が次に立つかで幕府の中の勢力図が変わるからである。家定の代の争いは、本人の意思とはほとんど関わりのないところで進んだ。
争いが激しくなった背景には、一八五三年のペリー来航からの流れがある。開国を迫られ、朝廷の意向を仰がなければ決められない状況が生まれていた。平時であれば、血の近い者を立てて終わりだった。国の方針を決めなければならない時期だったから、将軍の資質が問われた。継嗣問題が単なる跡目争いに収まらなかったのは、そのためである。
一人は紀州藩主の徳川慶福、のちの家茂である。父の斉順は十一代家斉の子で、紀州家へ入っていた。家定から見て慶福は近い親戚にあたり、血の近さでは並ぶ者がない。ただし当時まだ十二歳だった。
もう一人は徳川慶喜である。水戸の徳川斉昭の子で、一橋家へ養子に入っていた。血の近さでは慶福に劣るが、二十を過ぎており、英明との評判があった。
血の近さを取るか、能力と年齢を取るか。将軍継嗣問題と呼ばれる争いである。
慶福を推したのは、譜代大名を中心とする南紀派である。血の順を守れば争いは起きないという立場で、井伊直弼が代表になる。
慶喜を推したのは、外様や親藩を含む一橋派だった。開国をめぐる難しい時期に、幼い将軍では務まらないという立場である。
一八五八年、大老となった井伊直弼が慶福を後継に定めた。家茂として十四代将軍になる。反対した者は安政の大獄で処罰され、井伊自身も二年後に桜田門外で討たれた。
二人の候補は、どちらも徳川が用意した予備の枝から出ている。慶福は御三家の紀州、慶喜は水戸の子で御三卿の一橋である。
宗家に世継ぎが絶えたときの備えは、この場面で確かに働いた。同時に、備えを複数持っていたことが選択の対立を生んでもいる。吉宗のときは候補が実質ひとりだったので争いにならなかったが、幕末は二人いた。備えは多いほど安全とはかぎらない。
家茂が将軍になったあと、朝廷との関係を結び直す動きが起きる。開国をめぐって朝廷の意向が重みを持つようになり、幕府は公武合体を求めた。
そこで進められたのが、孝明天皇の妹の和宮を家茂に嫁がせる縁組である。和宮は仁孝天皇の皇女で、すでに有栖川宮との婚約があった。それを解いて、一八六二年に江戸へ下る。
皇女が武家に嫁ぐ例はそれまでにもあったが、将軍の正室になるのは異例だった。図で和宮を家茂の配偶者として置いてあるのは、この縁組を線として見せるためである。彼女自身は右の根の仁孝天皇から出ており、孝明天皇の妹にあたる。
家定の正室の篤姫は薩摩の島津家から、家茂の正室の和宮は朝廷から入っている。二代続けて、外から縁組で人を迎えたことになる。徳川が自前の血と力だけでは立てなくなっていたことが、正室の出どころに出ている。
江戸城には、薩摩から来た大御台所と、京から来た御台所が同居した。のちに薩摩は倒幕の中心になり、朝廷は新政府の中心になる。城の中に、幕府を終わらせる二つの側の縁者がいたことになる。
公武合体は成らなかった。家茂は一八六六年に二十歳で没し、和宮は落飾する。跡を継いだのは、継嗣問題で敗れた慶喜だった。翌年、慶喜は大政奉還を行い、幕府は終わる。
婚姻が同盟にならなかったのは、戦国の織田と浅井の縁組と同じである。血のつながりは、政治の対立を止める力を持たない。
ただし和宮は、江戸城の無血開城にあたって徳川家の存続を朝廷へ働きかけたと伝えられる。婚姻が効いたのは、争いを防ぐ場面ではなく、負けたあとの後始末だった。この働き方も、浅井三姉妹の江と変わらない。
図の三本の根のうち、徳川の二本は慶喜で終わる。仁孝天皇の枝だけが明治天皇へ続いていく。
将軍を出す家を二系統も用意していた徳川が、備えを使い切ったところで終わり、皇統のほうは細いまま続いた。備えの数と、続くかどうかは別だったことになる。
家茂と慶喜が争ったのは、どちらが徳川を継ぐかである。しかし二人が争っているあいだに、徳川そのものを続けるかどうかが外で決まっていた。跡目争いは家の中の問題だが、家が残るかどうかは家の外で決まる。応仁の乱でも、南北朝でも、同じことが起きていた。