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高麗の婚姻:豪族と結び、近親で閉じ、元の公主を迎えた

高麗の王家は、婚姻のしかたを三度大きく変えている。国を作るときは各地の豪族の娘を娶り、王権を固めるときは一族の内側で結び、元に服したあとは大カンの娘を迎えた。誰と結ぶかが、そのときの国の形をそのまま映している。

二十九人の妃

新羅の末、半島は各地の豪族が割拠していた。松嶽(開城)の豪族の子王建は、九一八年に高麗を建て、九三六年に半島を統一した。

王建が使った手が婚姻である。降ってきた豪族、味方についた豪族、力のある地方の家から、次々に娘を迎えた。妃と夫人の数は二十九人にのぼる。娘を出した家は王の外戚となり、背きにくくなる。武力で従わせるより、縁を結ぶほうが安く済んだ。

生まれた子は男子だけで二十五人いた。国を一つにまとめる手は、そのまま次の代の火種になる。

外戚が争う

王建が九四三年に没すると、王子たちの後ろにいた豪族が動いた。跡を継いだ恵宗は在位二年で没し、弟の定宗も四年で没する。どちらの代にも謀反の噂が絶えなかった。

三人目に立ったのが光宗である。この王は、豪族の力をそぎ落とすことに手を尽くした。奴婢按検法で豪族が抱えた人を解き放ち、科挙を導入して家柄によらない官僚を作り、疑わしい功臣を次々に処断した。

一族の内側で結ぶ

光宗が同時に採ったのが、王家の内側で結婚するという方針である。妃の大穆王后は、父の王建が別の妃に生ませた娘、つまり光宗の異母妹であった。

次の景宗も、叔父の戴宗の娘献哀王后を娶っている。さらに戴宗のもう一人の娘献貞王后は、叔父の安宗と結ばれ、その子が顕宗となった。三代にわたって、王家は外から妃を迎えなかった。

理由は明らかである。外から妃を迎えれば、その家が外戚として力を持つ。内側で結べば、外戚は王家そのものになる。ハプスブルク家がのちに同じ道を通ったのと、動機は同じであった。

外戚は戻ってくる

それでも外戚は戻ってきた。十一世紀から十二世紀にかけて、慶源李氏のような家が代々の妃を出し、朝廷を握った。仁宗の代には李資謙が権を振るい、王を自分の屋敷へ移そうとして退けられた。

一一七〇年、待遇に不満を持つ武臣が乱を起こす。以後、崔氏の一族が四代にわたって政を握り、王は形だけの存在になった。婚姻で豪族を抑える仕組みは、武力を握る家が出れば効かない。

元の公主

十三世紀、モンゴルが六度にわたって侵入した。高麗は江華島に籠って抵抗を続けたが、一二五九年に降る。ここから婚姻の形が三度目に変わる。

元宗の子忠烈王は、クビライの娘を妃に迎えた。斉国大長公主である。以後の高麗王は、代々元の公主を妻とし、大都で育ち、大カンの許しを得て即位した。王の名に「忠」の字が付くのも、元への忠を示すためである。

王家は元の一族に組み込まれた。血の上では大カンの外孫が高麗王になる。婚姻で相手を抑える立場から、婚姻で抑えられる立場へ回ったことになる。

王が二つの家に属す

この時代の高麗王は、二つの家系図に同時に載っていた。高麗の王統としての系図と、チンギス家の外戚としての系図である。元の宮廷では大カンの娘婿として位を与えられ、開京では王として臣を従えた。

忠宣王のように、元の宮廷にいるほうが長く、高麗の政は代理に任せた王もいる。国の外に自分の家がある王は、国の内側の家臣より、外の縁を頼るようになる。

恭愍王と終わり

十四世紀、元が衰えると恭愍王は自立を試みた。元の年号を捨て、親元派の家を退け、失った北の領土を取り戻そうとした。妃は元の魯国大長公主であったが、この人の死後、王は政への意欲を失っていく。

王が暗殺されたあと、朝廷は明と元のどちらに付くかで割れた。倭寇と紅巾賊を破って名を上げた武将李成桂が実権を握り、一三九二年に高麗は終わる。

家系図で見ると

高麗の王家の系図は、三つの層に分かれて見える。最初は横に大きく広がる。二十九人の妃から二十五人の男子が並ぶからである。次に幅が狭まり、線が内側で折り返す。近親婚の時期である。最後にまた外へ開くが、その相手はモンゴルの王家である。

王家がどこと縁を結ぶかは、その国が誰を恐れているかを示す。豪族を恐れた時期、外戚を恐れた時期、元を恐れた時期。高麗四百七十年の系図は、その恐れの移り変わりの記録でもある。

名を与える

王建は婚姻とあわせて、もう一つの手を使った。有力な豪族に王氏の姓を与えたのである。血のつながりがなくても、同じ姓を名乗れば一族として扱われる。系図を実際に伸ばすのではなく、系図の枠を広げて人を入れたことになる。

姓を与えられた家は、王家に準ずる格を得た。同時に、王家の側は身内が増えることで、争いの当事者も増やした。恵宗と定宗の代に絶えなかった謀反の噂は、血の縁と名だけの縁が入りまじった一族の内側から出ている。