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シュタウフェン朝:婚姻で得たシチリアが家を滅ぼした

シュタウフェン家は、一度の結婚でシチリア王国を手に入れた。地中海でいちばん豊かな王国であり、家の力は一気に増した。ところがドイツとシチリアのあいだには教皇領がある。二つを同じ家が持つことは、教皇にとって囲まれることを意味した。この位置関係が、百年もかからずにこの家を滅ぼした。

赤髭王

フリードリヒ一世、赤髭王バルバロッサは一一五二年にドイツ王となり、一一五五年に皇帝となった。イタリア北部の都市に帝国の権利を認めさせようとして六度アルプスを越え、ロンバルディア同盟と教皇に阻まれた。妻はブルグントの相続人ベアトリクスである。

一一八九年、六十代で第三回十字軍を率いて出発し、翌年小アジアの川で溺死した。皇帝の突然の死で、ドイツ軍の多くは引き返している。

シチリアの相続人

跡を継いだハインリヒ六世は、父の生前の一一八六年にコンスタンツェと結婚していた。シチリア王ロジェ二世の娘であり、父の死後に生まれた人である。当時のシチリア王ウィリアム二世に子がなければ、相続人になる立場だった。

シチリア王国は、ノルマン人が建てた国である。ギリシア人、アラブ人、ラテン人が住み、地中海の交易で富み、王の役所が発達していた。ドイツの皇帝が喉から手が出るほど欲しい国であった。結婚の時点で、コンスタンツェは三十一歳、ハインリヒは二十歳であった。

一一八九年にウィリアム二世が没する。シチリアの貴族は別の候補を立てたが、ハインリヒは一一九四年に軍を進めて王国を手に入れた。

天幕で産んだ子

同じ一一九四年、コンスタンツェは四十歳で子を産んだ。高齢の出産であり、後継者の出自が疑われることを避けるため、イエージの町の広場に天幕を張り、人を集めてその中で産んだと伝えられる。生まれたのがフリードリヒ二世である。

ハインリヒ六世は一一九七年、三十一歳で急死した。コンスタンツェも翌年に没し、三歳の子は教皇インノケンティウス三世の後見に委ねられる。ドイツでは弟のフィリップと対立候補が争い、シチリアの少年王は長く放っておかれた。

世界の驚異

フリードリヒ二世は、シチリアで育った。アラビア語を含む数か国語を話し、鷹狩りの書を自ら著し、法典を編み、ナポリに大学を置いた。世界の驚異と呼ばれた。

重心は最後までシチリアにあった。ドイツには数えるほどしか滞在せず、諸侯には特権を与えて任せた。皇帝が不在の帝国という形が、このころドイツで固まっていく。

教皇との争いは絶えなかった。破門を四度受け、破門されたまま十字軍に出てエルサレムを交渉で得るという離れ業もしている。教皇の側から見れば、南北から挟む皇帝は取り除くべき相手であった。

枝を落とされる

フリードリヒ二世の子たちは、次々に失われた。長子ハインリヒはドイツで父に背いて廃され、幽閉のうちに没した。跡を継いだコンラート四世は父の死から四年で病没する。庶子のマンフレーディはシチリア王として立ったが、教皇が招いたフランスのシャルル・ダンジューに一二六六年ベネヴェントで敗れ、戦死した。

最後に残ったのがコンラート四世の子コンラディンである。十五歳でイタリアへ入り、一二六八年タリアコッツォで敗れて捕らえられ、ナポリの広場で公開処刑された。十六歳であった。王家の子を裁判にかけて首を斬るというやり方は、当時のヨーロッパでも衝撃であった。

ここでシュタウフェン家の男系は絶えた。

そのあとに残ったもの

ドイツでは、認められる王がいない大空位時代が続いた。皇帝の力はもう戻らず、諸侯が事実上の主権者になっていく。神聖ローマ帝国が領邦の集まりになったのは、この時期に決まった。

シチリアはフランスのアンジュー家のものになり、やがて住民の反乱(シチリアの晩鐘)を経てアラゴン家へ渡る。ドイツの皇帝が結婚で得た王国は、二度も家ごと持ち主を変えた。

家系図で見ると

この家の系図は、上から下へ細く伸びて、最後の一人で終わっている。皇帝を四代出しながら、傍系の枝がほとんど残っていない。

枝が薄い家が、二つの離れた土地を同時に抱えると、どちらも守り切れない。しかもその二つに挟まれた場所に、敵となる勢力が座っていた。コンスタンツェとの結婚は、この家に最大の富と、最悪の位置関係を同時にもたらしたことになる。

皇帝と教皇のあいだ

この家の争いは、個人の対立ではなく地図の問題であった。神聖ローマ皇帝の領域はアルプスの北にあり、シチリア王国は半島の南端にある。そのあいだに教皇領が横たわる。二つを同じ人が持てば、教皇は南北から挟まれる。

教皇の側には、シチリア王国を別の家に渡す動機がはっきりとあった。フランスのシャルル・ダンジューを招いたのはそのためである。マンフレーディとコンラディンが立て続けに戦死したのも、この一手の結果である。

婚姻で領地を得ることは、ヨーロッパの王家にとって最も安く確実な方法であった。ただし得た土地がどこにあるかで、結果は逆になる。ハプスブルク家はこれで栄え、シュタウフェン家はこれで絶えた。