プロイセン王国は、地図の上では飛び離れた二つの土地から始まっている。ドイツの中ほどにあるブランデンブルクと、ポーランドの向こう側にあるプロイセンである。この二つが一つの家のものになったのは、一度の結婚の結果であった。
ホーエンツォレルン家はもと南ドイツ、シュヴァーベンの小さな領主である。一四一五年、皇帝ジギスムントからブランデンブルク辺境伯の位を与えられ、選帝侯の一人となった。皇帝を選ぶ七人のうちに入ったのは大きいが、領地は砂地の多い貧しい土地であった。
もう一方のプロイセンは、ドイツ騎士団が支配していた土地である。一五二五年、騎士団総長のアルブレヒトが宗教改革を受け入れて団を世俗化し、プロイセン公国とした。このアルブレヒトもホーエンツォレルン家の一員で、ブランデンブルク家とは分かれた枝であった。公国はポーランド王の宗主権のもとに置かれた。
アルブレヒトの子アルブレヒト・フリードリヒには男子が育たなかった。長く心の病があり、政は代理が執っていた。残ったのは娘たちである。
長女アンナは一五九四年、ブランデンブルク選帝侯家のヨハン・ジギスムントに嫁いだ。アルブレヒト・フリードリヒが一六一八年に没すると、プロイセン公国はこの婚姻によってブランデンブルクの手に入った。アンナは同時に、母方からユーリヒとクレーフェの相続権も持ち込んでいる。
一度の結婚で、家の領地は東と西へ大きく伸びた。ただし、あいだにはポーランド領とほかの領邦が挟まっている。飛び地をどうつなぐかが、以後二百年のこの家の課題になった。
三十年戦争でブランデンブルクは荒れた。復興を担ったのがフリードリヒ・ヴィルヘルム、大選帝侯と呼ばれた人である。
この人が始めたのは、飛び地を抱える国が生き延びる方法であった。常備軍を置き、身分制の議会から課税権を取り上げ、役人の組織を作る。土地がつながっていないぶん、軍と役人でつなぐという考えである。一六六〇年のオリヴァ条約で、プロイセン公国はポーランドの宗主権から解かれた。
その子フリードリヒ一世は、王の位を欲しがった。神聖ローマ帝国の内側では、皇帝の下に王は置けない。ところがプロイセン公国は帝国の外にある。ここでなら王を名乗れる。
一七〇一年、スペイン継承戦争を控えた皇帝レオポルト一世に兵を出す約束をし、その見返りに王号を認めさせた。ケーニヒスベルクで自ら戴冠する。ただし名乗ったのは「プロイセンの王」ではなく「プロイセンにおける王」であった。プロイセンの西半分はまだポーランド領だったからである。
次のフリードリヒ・ヴィルヘルム一世は軍人王と呼ばれた。宮廷の費用を削り、軍を四倍に増やし、役人の勤めを厳しくした。芸術を好む子を認めず、脱走を企てた息子の友人を目の前で処刑させたと伝えられる。
その子がフリードリヒ二世、大王である。即位した年にシュレージエンへ侵攻し、オーストリアから奪った。七年戦争ではヨーロッパの大半を敵に回して持ちこたえた。父が貯めた軍と金を、子が使ったかたちである。
一七七二年のポーランド分割で西プロイセンが手に入り、飛び地はつながった。ここでようやく、称号も「プロイセンの王」になる。
十九世紀、ホーエンツォレルン家はドイツ統一の中心になる。一八七一年、ヴィルヘルム一世がヴェルサイユでドイツ皇帝を宣した。宰相ビスマルクが仕上げた仕事である。
辺境伯から選帝侯、公国の相続、王、そして皇帝。四百五十年でこれだけ位が上がった家はほかにない。そのうち最も大きな一歩は、戦ではなく一五九四年の結婚であった。
この家の系図は、途中でいちど別の枝から縦に受け継ぐ形になっている。ブランデンブルクの本流に、プロイセン公国を持つ枝の娘が入り、その子から先が一本になる。以後は父から子へまっすぐ下りていく。
位が上がるときには、たいてい家の外から何かが入っている。プロイセンは娘が持ってきた領地、王冠は皇帝との取引、皇帝位はドイツ統一の産物である。系図をなぞると、この家が自前の土地の力ではなく、縁と取引で階段を上がったことが見えてくる。
おもしろいのは、家が名乗った国の名である。ブランデンブルクが本流で、プロイセンは婚姻で入ってきた飛び地であった。それでも国の名になったのはプロイセンのほうである。帝国の外にある土地でしか王を名乗れなかったという、ただ一つの事情による。
そのプロイセンの地は、第二次世界大戦のあとポーランドとソ連に分かれ、ドイツの地図から消えた。国名になった土地が失われ、本流だったブランデンブルクの名が今も州の名として残っている。家系図と地名の来歴が、ここでねじれて残ったことになる。