朝鮮王朝の最後の六十年ほど、国を動かしたのは王ではなく王妃の実家だった。勢道政治と呼ばれる。安東金氏が三代にわたって王妃を出し、その間に王は次々に遠い枝から連れてこられる。図の縦の線をたどると、王位が本流から二度も横へ跳んでいることがわかる。跳んだ先を選んだのは、外戚の家である。
図の根にいる荘祖は、英祖の子で、米櫃に閉じ込められて殺された思悼世子である。その子が正祖、弟が恩彦君と恩信君にあたる。
王位は正祖の枝を下っていくが、二度そこで途切れ、そのたびに恩彦君の枝と恩信君の枝から補われた。三本の枝を用意していたつもりはない。結果として、遠い枝しか残っていなかった。
一八〇〇年、正祖が急死し、十一歳の純祖が立った。摂政に付いた大王大妃の意向で、純祖の妃に純元王后が入る。金祖淳の娘、安東金氏である。
金祖淳は正祖から幼い王の後見を託されていた人物でもあった。娘を入れ、外祖父として朝廷を握る。蘇我氏も藤原氏も通った道で、朝鮮では正祖の死からわずか数年でこの形ができあがった。
純祖の子孝明世子は代理で政務を執り、外戚を抑えようとした。妃の神貞王后は趙萬永の娘で、豊壌趙氏である。安東金氏に対抗させるための縁組だった。
しかし孝明世子は二十一歳で死ぬ。残された子が八歳で即位した憲宗である。ここでも王は幼く、妃には金祖根の娘孝顕王后が入った。二代続けて、同じ家から妃が出たことになる。
勢道の家がしたことは、要職を身内で埋めることである。科挙の合格者も、地方の守令の任命も、家の縁で決まるようになった。制度そのものは残っているのに、それを動かす人がひとつの家から出る。藤原北家が摂関を独占したときと、起きていることは変わらない。
憲宗が二十二歳で子なく死ぬと、正祖の枝は絶えた。安東金氏が選んだのは、江華島で農民として暮らしていた哲宗である。恩彦君の孫にあたる。
祖父も父も罪を得て流された家で、本人は学問も受けていない。十九歳で王宮へ連れてこられ、金汶根の娘哲仁王后を妃に迎えた。三代目の安東金氏の妃である。
王として何もできない者を選び、その王の妃をまた自分の家から出す。血の資格は候補を絞るためだけに使われ、絞った中から最も弱い者が引かれた。ロシアが動乱のあとに十六歳のミハイル・ロマノフを選んだのと、選び方は変わらない。
一八六三年に哲宗も子なく死んだ。このとき決めたのは、生き残っていた孝明世子の妃、豊壌趙氏の神貞王后である。
彼女が選んだのは、恩信君の枝にいた十二歳の高宗だった。父の興宣大院君は、わざと無能を装って安東金氏の警戒を避けていたと伝えられる。即位すると、この父が実権を握った。外戚の家が選んだ王の父が、外戚の家を退けた形になる。
高宗が成人すると、今度は妃の明成皇后の実家である驪興閔氏が力を持った。大院君と閔氏の対立が、開国か攘夷かという路線の争いと重なる。
家が入れ替わっても、王の外戚が政務を握る形そのものは変わらない。日本が朝鮮へ入り込んでいくのは、この対立が続いているあいだのことである。
六十年のあいだに、王妃を出す家は安東金氏から豊壌趙氏、そして驪興閔氏へと移った。移るたびに前の家が退けられ、新しい家が同じ場所に座る。座る人が替わっても椅子は減らない。外戚という椅子を用意している制度のほうを、誰も動かさなかった。
この図で王位は、上から下へまっすぐ落ちていない。二度、横へ跳んでいる。跳ぶ先を選ぶのは、その時点で王妃を出している家である。
血で継ぐ制度は、継ぐ者がいるあいだは選択を許さない。いなくなった瞬間に、選ぶ権利が誰かの手に渡る。王家の直系が細ければ細いほど、外戚の力は強くなる。図の縦の線が細いことと、横にいる家が強いことは、同じ一つのことである。
徳川が御三家と御三卿を用意したのは、この事態を避けるためだった。宗家が絶えても、どこから入れるかがあらかじめ決まっていれば、選ぶ権利は誰にも渡らない。朝鮮の王家には、その備えの枝がなかった。
荘祖の三人の子から出た三本の枝は、備えとして置かれたものではない。罪を得て流された家や、傍系に養子で入った家が、たまたま残っていただけである。誰も用意していなかった枝から王を選べば、選んだ側の意向がそのまま王の性格になる。備えの枝を置かなかった家では、その空いた場所に外戚が座ることになる。誰が王位を継ぐかを決める者は、いつでも系図のいちばん外側から現れている。