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藤原四家:不比等の四人の子が分けた家

藤原氏は一つの家として続いたわけではない。奈良時代の初めに四つに分かれ、以後二百年、どの家が朝廷の中心に立つかで入れ替わりが起きた。最後に残った北家から、道長も五摂家も出る。図で不比等の下に横に並ぶ四人が、その四つの家の始まりである。

鎌足から不比等へ

中臣鎌足は乙巳の変で中大兄皇子とともに蘇我入鹿を討った人物である。臨終にあたって藤原の姓を与えられた。

その子の不比等が、家を朝廷の中枢に据えた。大宝律令の編纂に加わり、娘の宮子を文武天皇の夫人に、光明子を聖武天皇の后に入れる。父と娘の二代で、天皇の外祖父の座を続けて取った。蘇我氏が使った型を、藤原氏はここで受け継いでいる。図に宮子と光明子を置いてあるのは、この二人が四家より先に家の地位を作ったからである。

四つに分かれる

不比等には四人の男子がいた。それぞれが家を立て、住んだ場所や就いた官職から名が付く。

  • 武智麻呂 — 南家
  • 房前 — 北家
  • 宇合 — 式家
  • 麻呂 — 京家

分けたのは、一人に絞れば残りが臣下に落ちるからである。四つに分ければ、どの子の家も朝廷で位を得られる。北家がさらに五つに分かれて五摂家になるのは、この五百年後になる。同じ発想が二度使われたことになる。

四人が同時に死ぬ

七三七年、都に疫病が流行し、四兄弟が相次いで没した。藤原氏は一挙に指導者を失う。代わって政権を握ったのは、皇族出身の橘諸兄である。

家を四つに分けておいたことが、ここで効いた。当主が四人いれば四人まとめて失う危険もあるが、次の代は四つの家から出てくる。実際、藤原氏は二十年ほどで盛り返した。分けることは、こういう形でも保険になる。

四つの家の名

四家の名は、住んだ場所や役目から付いた。武智麻呂の邸が平城京の南にあったので南家、房前の邸が北にあったので北家という。宇合が式部卿を務めたので式家、麻呂が左京大夫だったので京家である。

名の付き方が場所と官職に由来していることには意味がある。血統を示す名ではないので、外から見て序列が分からない。南も北も同格で、上下を含まない。一人を立てて残りを従わせるのではなく、横に並べる意図が名にも出ている。

南家の仲麻呂

最初に上がったのは南家である。武智麻呂の子の仲麻呂が光明皇后の信任を得て権力を握り、恵美押勝の名を賜った。

しかし孝謙上皇と道鏡が力を持つと対立し、七六四年に乱を起こして敗死する。南家はここで中心から外れた。

式家の百川

次に上がったのが式家である。宇合の子の百川は、称徳天皇の没後に光仁天皇を擁立する動きの中心にいた。天武系が絶えて天智系へ移るという皇統の切り替えの場面で、式家が働いている。

続く桓武天皇の代も式家が近くにいた。ただし宇合の子の広嗣は七四〇年に乱を起こして敗れており、式家は上がる前に一度躓いてもいる。

北家が残る

北家は、四家の中で当初もっとも目立たない。房前の子の永手が政権に加わり、その弟の真楯の系統から内麻呂、冬嗣と続く。

冬嗣が嵯峨天皇の信任を得て蔵人頭となり、そこから北家の二百年が始まる。図で北家の枝だけが下へ長く伸びているのは、この一本が平安の摂関政治につながるからである。冬嗣の子の良房が人臣で最初の摂政になるのは、この図のすぐ先である。

四つに分けたことの意味

四家のうち三つは、いずれも一度は中心に立ち、そして退いた。南家は仲麻呂の乱で、式家は薬子の変で力を失い、京家は早くに振るわなくなる。

一つの家に絞っていれば、どこかで躓いた時点で藤原氏そのものが終わっていた。四つ持っていたから、三つ倒れても一つ残る。分けることは力を薄めるが、絶える危険も薄める。徳川の御三家や皇室の世襲親王家と同じ計算が、ここでも働いている。

残った北家がさらに五摂家へ分かれるのは、この経験を踏まえたものでもあるだろう。藤原氏は八百年のあいだに二度、同じ手を打っている。

分けた家はどこへ行ったか

中心から外れた三家も、絶えたわけではない。南家からは学者の家が出て、式家は薬子の変のあと衰えながらも公家として残り、京家は早くに振るわなくなったものの家名は続いた。

図に描いた四本の枝のうち、下へ長く伸びるのは北家だけである。ただしそれは、この記事が摂関政治につながる線を追っているからにすぎない。ほかの三本も、図の外では細く続いていた。系図をどこで切るかで、絶えたように見えるか続いているように見えるかが変わる。

藤原という姓を名乗る家がこれほど多いのは、四家がそれぞれさらに枝を出したからである。分けることを繰り返した結果、姓だけが広く残った。武家の藤原氏を称する家が各地にあるのも、この広がりの末端にあたる。