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ヴィクトリアの子孫:ヨーロッパ中の王家に入った血友病

ヴィクトリア女王には九人の子と四十人を超える孫がいた。その多くがヨーロッパの王家へ嫁ぎ、あるいは婿に入っている。ヨーロッパの祖母と呼ばれるゆえんである。ところがこの家系図をたどると、二つのものが同じ線を通って広がっていくのが見える。王位と、血友病である。

九人の子を配る

ヴィクトリアと夫のアルバートは、子を政略的に嫁がせた。長女はプロイセン王太子へ、アリスはヘッセン大公家へ、末娘のベアトリスはバッテンベルク家へ。息子たちもデンマークやロシアの王女を娶っている。

十九世紀の後半、ヨーロッパの主要な王家のほとんどがこの家とつながった。王家どうしを婚姻で結べば戦争が減る、という考えがあった。

四十二人の孫

ヴィクトリアの孫は四十二人いた。祖母は縁組に細かく口を出し、どの孫をどこへ嫁がせるかを自分で采配している。手紙で相手の家柄と健康と信仰を調べ、気に入らない縁談は潰した。

結果として、十九世紀末のヨーロッパの宮廷は親族の集まりのようになった。国境をまたいで従兄弟どうしが並ぶ状態はそれまでにもあったが、これほど一人の人物を中心に集まったことはない。

血友病がまぎれこむ

ヴィクトリアは血友病の保因者だった。この病は母から息子へ現れ、娘は保因者として次の代へ渡す。

末の息子のレオポルドが発症し、三十歳で死んだ。娘のアリスとベアトリスは保因者で、それぞれの子へ渡している。

婚姻で王家をつなぐということは、遺伝子もつなぐということだった。当時は仕組みが分かっていない。原因も伝わり方も知られないまま、病は系図に沿って広がった。

ロシアへ

アリスの娘はロシア皇帝ニコライ二世と結婚し、皇后アレクサンドラとなった。一九〇四年に生まれた皇太子アレクセイが血友病だった。

病は国民に伏せられた。皇后は治療の望みを僧ラスプーチンに託し、宮廷での影響力を許してしまう。皇室の権威が損なわれ、革命前夜の不信を深める一因になった。一九一八年、一家は処刑されている。

スペインへ

ベアトリスの娘ヴィクトリア・ユージェニーは、スペイン王アルフォンソ十三世と結婚した。生まれた息子のうち二人が血友病で、王家に重い緊張をもたらした。

イギリスから来た王妃が病を持ち込んだと見られ、王妃はスペインの宮廷で孤立する。婚姻で結んだ縁が、そのまま責められる理由になった。

病には名前もなかった

血友病という言葉が医学に定着したのは十九世紀に入ってからで、伝わり方が分かるのはさらにあとである。ヴィクトリア自身は、自分の家系に病があるという見方を受け入れなかったと伝えられる。

原因が分からないので、避けようもない。娘を嫁がせるたびに、誰も知らないまま次の家へ渡っていった。系図を引いてはじめて、どの線を通ったのかが見える。当時の人には見えなかったものが、いまは図の上にある。

従兄弟どうしの戦争

第一次世界大戦が始まったとき、イギリス王ジョージ五世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世、ロシア皇帝ニコライ二世は、互いに従兄弟の関係にあった。ヴィルヘルムとジョージはヴィクトリアの孫どうし、ニコライはジョージの母方の従兄弟であり、妃を通じてもつながっている。

婚姻で結べば戦争が減るという考えは、ここで否定された。国家の利害は家の縁より強い。三人は個人的な文通を続けながら、四年にわたって国を戦わせた。

家名を変える

一九一七年、ジョージ五世は王家の名をザクセン=コーブルク=ゴータからウィンザーへ改めた。父アルバートから受け継いだドイツ風の家名が、戦時下の世論に耐えられなくなったためである。ドイツ系の親族の称号も英語のものに変えさせた。

血縁は変えられないが、名前は変えられる。上杉の家名が血のつながらない越後の武将へ渡ったのとは逆に、ここでは血を残したまま名を捨てている。

同じ年、ジョージ五世はニコライ二世一家の亡命受け入れを一度承諾したあと、撤回した。従兄弟であることより、自国の王位を守ることが優先された。

王家が消えていく

戦争が終わると、ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリーの帝室が消えた。ヴィクトリアの子孫が座っていた玉座のいくつかが、まとめてなくなったことになる。

残ったのはイギリス、スペイン、それに北欧の王家である。現在のヨーロッパの王室で、ヴィクトリアの血を引かない家のほうが少ない。

渡したいものだけは渡せない

この記事の家系図は、王位の広がりと病の広がりが同じ線をたどることを見せている。婚姻は同盟であり、相続であり、同時に遺伝でもあった。

ハプスブルク家は血を閉じて絶えた。ヴィクトリアの家は血を広げて残った。だが広げたぶん、渡してしまったものも一緒に広がっている。系図は、渡したいものだけを選んで渡すことを許さない。