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チンギス家:四人の子が分けたモンゴル

モンゴル帝国は史上いちばん広い陸の帝国になった。それを一つの国として保つ仕組みは、しかし用意されていなかった。土地は息子たちに分けられ、大カンはそのつど集会で選ばれる。この二つの決まりから、帝国は三代で四つに分かれた。

四人の息子

テムジンは草原の諸部族を平らげ、一二〇六年にチンギス・カンと称した。妻ボルテとのあいだに四人の男子がある。ジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイである。

長男ジョチには出自の疑いがついていた。ボルテが結婚の直後にメルキト族にさらわれ、取り戻されたあとに生まれた子だったからである。次男チャガタイはこれを公然と口にし、兄弟は父の前で争った。この一件があるため、チンギス・カンは長男にも次男にも大カンの位を渡さなかった。

選ばれたのは三男のオゴデイである。兄弟の折り合いをつけられる人柄だとされた。四男のトルイには、モンゴル高原の本拠地が与えられた。末子が父の家と本地を継ぐという遊牧民の習わしによる。

ウルスという分け方

チンギス・カンは、征服した土地を息子たちにウルスとして分けた。ウルスは領地というより、率いる人の集団を指す言葉である。土地に線を引くのではなく、何千の家をつけるかで分ける。

  • ジョチのウルスは西へ、のちのキプチャク・ハン国になる
  • チャガタイのウルスは中央アジア、天山の南北
  • オゴデイのウルスはその東側
  • トルイは高原の本拠地を保つ

分けても、上に大カンがいて全体をまとめる。この二重の仕組みは、大カンが強いあいだは働いた。

クリルタイ

大カンはクリルタイという一族と諸将の集会で選ばれた。父が指名しても、集会が承認しなければ位につけない。逆に、集会を自分に有利な場所と時期に開ければ、指名を覆すこともできる。

一二二七年にチンギス・カンが没し、一二二九年のクリルタイでオゴデイが立った。オゴデイの代に金を滅ぼし、バトゥの軍が西へ進んでロシアの諸公を服属させ、ポーランドとハンガリーにまで達している。

一二四一年にオゴデイが没すると、後継の集会がなかなか開けなかった。西征中のバトゥが帰らなかったからである。数年の空白のあと、オゴデイの子グユクが立ったが二年で没した。

トルイ家へ移る

ここでバトゥが動いた。自分の領地に近い場所でクリルタイを開き、トルイの子モンケを大カンに推したのである。オゴデイ家の側は正統でないと訴えたが、押し切られた。以後、大カンの位はトルイ家のものになる。

モンケは南宋への遠征のさなか、一二五九年に没した。ここでクビライと弟のアリクブケが、それぞれ別の場所でクリルタイを開いて大カンを称した。四年の内戦になり、クビライが勝つ。

選挙で決めるという仕組みは、選ぶ場を二つ作れば内戦になる。帝国が一つでいられる条件は、ここで失われた。

四つに分かれる

クビライは一二七一年に国号をとし、都を大都(北京)に置いた。中国の王朝としての形を取ったことで、草原の諸王からは離れていく。

同じころ、トルイの子フレグは西アジアを征服してイル・ハン国を建て、バトゥの子孫はキプチャク・ハン国を保ち、チャガタイの子孫は中央アジアに残った。四つの国は互いに戦い、また同盟した。とくにイル・ハン国とキプチャク・ハン国は、カフカスの領有で長く争っている。

大カンの位は形として残ったが、命令が全体に届く帝国ではなくなった。

血が正統になる

それでも、チンギス・カンの血には長く価値があった。中央アジアでは、この血を引かない者は君主を名乗りにくかった。ティムールは自らはカンを称さず、チンギス家の傍系を名目上の君主に立て、自分は娘婿の立場を取っている。

ティムールの子孫バーブルがインドでムガル帝国を建てたとき、その母方はチャガタイ家の血であった。ムガルという呼び名がモンゴルに由来するのも、この縁による。帝国が分かれてから三百年たっても、系図の一点につながっているかどうかが、君主の資格を決めていた。

家系図で見ると

チンギス家の系図は、一人の下に四本の太い枝が並び、そのそれぞれがさらに広がる形である。どの枝も国を持ち、どの枝も大カンを主張できる。

血筋を絞らなかったことが、帝国を一気に広げる力になった。四人の息子と孫たちがそれぞれの方向へ攻めたからである。同じことが、帝国を一つに保てなかった理由でもある。広げる力と、まとめる力は、同じ家系図の形から出ていた。

記録に残った疑い

おもしろいのは、ジョチの出自の疑いが記録に残されたことである。『元朝秘史』は、チャガタイが兄をメルキトの落とし胤と呼び、父がそれを叱る場面を書いている。ふつう王家の系図は、こうした疑いを消す方向に整えられる。

消えなかったのは、この疑いがその後の政治で使われ続けたからである。ジョチの子孫が大カンの位を主張しないという了解の根拠になり、逆にジョチ家が独立して動く理由にもなった。系図の一点に付いた注記が、二百年にわたって帝国の力の配置を決めていたことになる。