セウェルス朝の皇帝は五人いる。そのうち三人は、シリアのエメサにあった太陽神の神官の家から出た女性たちの子か孫である。男系はカラカラで途切れているが、王朝はそこで終わらなかった。姉妹と娘がつないだからである。
一九三年、コンモドゥスの死後にまた皇帝が乱立した。勝ち残ったのがセプティミウス・セウェルスである。北アフリカのレプティス・マグナの出身で、ラテン語にはアフリカの訛りがあったと伝えられる。ローマの皇帝がアフリカから出たのは初めてであった。
セウェルスは軍を頼りにした。兵の給与を上げ、軍団を増やし、元老院を抑えた。死に臨んで子に残した言葉が伝わる。兄弟仲良くし、兵士を富ませよ、ほかは気にするな、というものである。
セウェルスは最初の妻を亡くしたあと、シリアのユリア・ドムナを妻に迎えた。エメサの太陽神の神官ユリウス・バッシアヌスの娘である。カッシウス・ディオは、王と結ばれるという占いが出ている娘だと聞いて、セウェルスが望んだと記す。
この結婚で、ローマの皇后にシリアの神官の家の血が入った。ユリア・ドムナは学者や哲学者を宮廷に集め、夫の遠征にも同行した。陣営の母という称号を与えられている。
二人の子がカラカラとゲタである。父の遺言のとおりにはならなかった。二一一年に父が没すると、兄弟は宮殿を分けて住み、互いの料理に毒を疑った。
同じ年、カラカラは和解を装って母の部屋に弟を呼び出し、そこで殺させた。ユリア・ドムナは腕のなかで子が死ぬのを見た。ゲタの名は碑文から削られ、像は壊された。弟を悼むことも禁じられ、それを口にした者が処刑された。
カラカラは二一二年、帝国のすべての自由民にローマ市民権を与える勅法を出した。歴史に残る大きな決定である。同じ皇帝が、弟殺しと市民権の拡大を数か月のうちに行っている。
二一七年、カラカラは遠征の途中で近衛長官マクリヌスの手の者に殺された。ユリア・ドムナは病と絶食のうちに没する。ここで男系は絶えた。
ユリア・ドムナには姉がいた。ユリア・マエサである。妹の死後、宮廷を追われてエメサへ帰されたが、そこであきらめなかった。
マエサには二人の娘があった。ユリア・ソエミアスとユリア・マメアである。ソエミアスの子はまだ十四歳で、エメサの神殿で太陽神に仕えていた。マエサはこの少年を、カラカラの隠し子であると称して軍に売り込んだ。カラカラを慕う兵は多く、その子と聞けば従う理由になる。
二一八年、軍が動いてマクリヌスを倒し、少年が皇帝となった。エラガバルスである。
エラガバルスは、エメサの太陽神をローマへ持ち込んだ。この神を最高神としてユピテルの上に置き、自ら神官として祭儀を執り行った。宮廷の作法も服装も変え、元老院は震え上がった。
祖母のマエサは、この孫では持たないと見た。そこでもう一人の娘マメアの子アレクサンデルを、エラガバルスの養子として立てさせる。二二二年、近衛兵が反乱を起こしてエラガバルスと母ソエミアスを殺し、遺体をテヴェレ川に投げ込んだ。十八歳であった。
セウェルス・アレクサンデルは十三歳で即位した。政は祖母マエサと母マメアが執った。元老院との関係を修復し、法学者を重んじ、二十年に近い治世を保った。
ただし、この皇帝は最後まで母から離れなかった。三十歳を過ぎても軍事も外交も母が決めていたと伝えられる。二三五年、ゲルマニアの陣営で兵が反乱を起こし、皇帝は母とともに天幕で殺された。
ここからローマは、五十年のあいだに二十人以上の皇帝が立つ混乱期に入る。三世紀の危機と呼ばれる時代である。
セウェルス朝の五十年を家系図で見ると、皇帝の位が男から男へ縦に下りていないことがすぐわかる。カラカラのあとは、母方の姉の娘の子、そのまた妹の子へ渡る。系図の線は、女性の名を三度通っている。
ローマの制度では、女性は皇帝になれない。それでも皇帝を作ることはできた。血のつながりを主張し、軍に金を配り、兵の支持を集める役目である。ユリア・マエサがしたのは、まさにそれであった。
この王朝の系図は、エメサの神官バッシアヌスを起点に置くと最もよく読める。皇帝を出した家ではなく、皇后と皇太后を出した家として並べるほうが筋が通る。
血筋が正統を与える制度のもとでは、その血を持つ人がどこにいてもかまわない。神殿に仕える少年でも、系図の上で皇帝につながっていれば帝位に届く。逆に言えば、系図をどう語るかを握った者が皇帝を決められた。エラガバルスがカラカラの子と称されたことは、その最も露骨な例である。