徳川家康・秀忠・家光の三代は、江戸幕府の骨格をつくった時期です。この三代がやったことは、法令を並べるだけでは筋が見えません。誰が誰の子で、誰と結ばれたかを見ると、政策の一つひとつが「徳川の血筋以外に将軍はありえない」という一点へ向かっていたことがわかります。
家康の長男松平信康は、1579 年に自刃しています。織田信長の意向によるとされてきましたが、近年は徳川家中の対立を背景に見る説も出ています。次男の結城秀康は豊臣秀吉のもとへ養子に出され、のちに下総の結城家を継ぎました。跡取りとして家中に残ったのが、三男の秀忠です。
家督が長男から順に下りていくとはかぎらない。この事実は、このあとの徳川家をずっと縛ります。誰を跡継ぎにするかは決めうるものであり、決めうるからこそ争いの種になる。家康が早い段階で手を打ったのは、そのためでした。
家康が征夷大将軍になったのは 1603 年ですが、わずか二年後の 1605 年に、その職を秀忠へ譲っています。自分は健在のまま大御所として実権を握り続けました。政治的な引退ではありません。将軍職が徳川家の世襲であることを、豊臣家と諸大名の目に見える形で示すための譲位でした。
同じ時期、家康は縁組も使っています。孫の千姫は 1603 年に豊臣秀頼へ嫁ぎました。豊臣家を徳川の縁戚に取り込む手です。しかし 1615 年の大坂夏の陣で秀頼は自害し、千姫は城から救い出されて、のちに本多忠刻へ再嫁しました。縁組で収まらなければ滅ぼす、という順番でした。
大坂の陣が終わった 1615 年、幕府は立て続けに法を出します。大名を縛る武家諸法度、朝廷と公家を縛る禁中並公家諸法度、大名の城を一つに限る一国一城令です。武力で豊臣を消したその年に、残りは法で縛る形へ切り替えました。
家康はさらに、末子の三人を独立した家として立てています。九男義直の尾張、十男頼宣の紀伊、十一男頼房の水戸で、のちの御三家です。将軍家に跡継ぎがいなくなったときの備えでした。この備えが実際に働くのは百年以上あとの吉宗のときですが、そこまで見越した設計になっていました。
秀忠の代は、家康が作った法を実際に使ってみせた時期です。1619 年、安芸広島の福島正則が城を無断で修築したとして改易されました。豊臣恩顧の大大名でも、法に触れれば取り潰す。この一件が武家諸法度の重みを決めました。
朝廷に対しては、娘の和子を 1620 年に後水尾天皇へ入内させています。生まれた興子内親王は、1629 年に明正天皇として即位しました。徳川の血を引く天皇が立ったわけです。禁中並公家諸法度で朝廷を制度として縛り、入内で血縁としても結ぶ。二重の押さえでした。
秀忠も家康にならい、1623 年に将軍職を家光へ譲って大御所になります。1632 年に死ぬまで実権を持ちました。二代続けて同じことをしたことで、生前の譲位そのものが徳川家のやり方として定着します。
家光には同母弟の忠長がいました。幼いころは忠長のほうが両親に愛され、後継が揺れたと伝わります。家康が家光を指名して収めたという逸話も残りますが、これは後年の書物によるもので、確かなことはわかりません。いずれにせよ家光は、将軍になったあと弟を放置しませんでした。1632 年に忠長を改易し、翌年に自刃させています。血の近い者ほど脅威になる、という判断です。
秀忠の死で親政を始めた家光は、1635 年に武家諸法度を改めます。この寛永令で参勤交代が外様大名の義務として明文化されました。妻子を江戸に置き、大名自身が一年おきに江戸と国元を行き来する。移動と滞在の費用が大名の財力を削り、江戸の屋敷が人質の役目を果たしました。譜代大名に広げられるのは 1642 年です。
対外的には、1633 年から段階的に渡航と貿易を制限し、1639 年にポルトガル船の来航を禁じ、1641 年にオランダ商館を長崎の出島へ移します。いわゆる鎖国です。大名が海外と直に結びついて富と武器を蓄える道を断つ、という点で、参勤交代と同じ方向を向いた政策でした。
家光は諸大名に向かって「余は生まれながらの将軍である」と述べたと伝わります。家康は自ら将軍になった人であり、秀忠は父から譲られた人でした。家光は、生まれたときすでに徳川が天下を取っていた最初の将軍です。この言葉が示すのは、三代かけて何が完成したかということでした。
家康は将軍職が世襲であることを示し、秀忠は法が本当に働くことを示し、家光は大名が力を持てない仕組みを仕上げました。そのどれもが、家系図の上では一本の線でつながっています。家康が末子三人を分家させ、秀忠が娘を天皇に嫁がせ、家光が弟を除いた。人をどこへ配置するかが、そのまま政策だった時代です。