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華族の婚姻:旧大名家と皇室が結ばれた

一八八四年の華族令は、公家と旧大名と維新の功臣を、公・侯・伯・子・男という五つの爵位で一つの身分にまとめた。武家と公家という区別は、ここで法の上から消える。同じ身分になったことは、同じ相手と結婚できるようになったことでもあった。図の三本の根はそれぞれ別の家だが、下へ行くと皇室で一つにつながる。

妃を出せる家

江戸まで、天皇の后は摂家か宮家、あるいは宮中に仕える家の娘から出るのが通例だった。旧大名の娘が入る道はない。

明治になって皇室典範と皇族の婚嫁の定めが整うと、皇族の配偶者は皇族か華族から選ぶ形になる。華族には旧大名家が入っているので、薩摩や佐賀の当主の娘が候補に上がることになった。制度が一行変わると、系図の描ける範囲がそれだけ広がる。

九条の娘

九条道孝は五摂家の一つ、九条家の当主である。その娘節子が皇太子嘉仁親王、のちの大正天皇の妃となった。貞明皇后である。

これは古い型のとおりの婚姻で、摂家から后が出るのは平安からの筋である。図の一本目の根は、明治になっても変わらなかった側を示している。

島津の娘

島津忠義は薩摩藩の最後の藩主で、公爵になった。その娘俔子が久邇宮邦彦王に嫁ぐ。生まれた良子女王が、のちの昭和天皇の皇后、香淳皇后である。

旧藩主の娘が宮家へ入り、その娘が皇后になった。二代で薩摩の血が皇室の内側へ入ったことになる。婚約が決まったあと、色覚の遺伝を理由に婚約辞退を迫る動きが起き、宮中某重大事件と呼ばれた。血をどう扱うかが、そのまま政治の争点になった例である。婚儀は一九二四年に行われ、この線がそのまま今の皇室へ続いている。

鍋島の娘

鍋島直大は佐賀藩の最後の藩主で、侯爵になり、駐イタリア公使もつとめた。その娘伊都子が梨本宮守正王に嫁ぐ。

伊都子の娘方子は、皇太子裕仁親王の妃候補に挙がったこともあったが、実際には李垠へ嫁いだ。大韓帝国の最後の皇太子であり、併合後は王公族として日本に置かれていた人である。一九二〇年の婚儀は、日本と朝鮮を親しく見せるための政略でもあった。

二人の子李玖はアメリカで建築を学び、日本で没している。図の三本目の根は、皇族の婚姻が国の外まで使われたことを示している。

宮家という受け皿

旧大名の娘が、そのまま天皇の后になったわけではない。まず宮家へ入り、その娘が皇后になっている。島津も鍋島も同じ形である。

宮家はもともと、皇統が絶えたときの備えとして置かれた枝だった。近代になると、もう一つの役目がそこへ加わる。華族から入った血を一度受け止め、次の代で本流へ渡す中継ぎである。江戸に四親王家を置いた目的は男系を絶やさないことだったが、近代の宮家は血を入れる側の口にもなった。

功臣の家が入る

華族には旧大名と公家のほかに、維新に功のあった者の家も入った。岩倉・大久保・木戸・伊藤・山県らである。公家でも大名でもない出自の家が、同じ身分の枠に並んだことになる。

この層も婚姻で縦横に結ばれた。大久保利通の子は牧野伸顕として伯爵になり、その娘が吉田茂に嫁いでいる。旧大名の血が皇室へ向かったのに対し、功臣の血は政治と財界の側で結ばれた。同じ制度の中に、上へ向かう縁と横へ広がる縁の二つができたことになる。

婚姻が担った役目

華族という身分は、家柄を残すためだけのものではない。皇室を支える層を用意し、そこから妃を出させるための仕組みでもあった。旧大名を華族に入れたことで、幕藩の主だった家は皇室の縁戚になる道を得ている。

かつての外様が皇后の実家になる。武家の側から見れば、これは幕府が二百五十年かけても届かなかった位置である。

一九四七年

戦後の憲法で華族は廃止された。同じ年、十一の宮家が皇籍を離れている。爵位も宮家も、制度としては消えた。

しかし婚姻でつながった血は、制度と一緒には消えない。香淳皇后を通じて島津の血は今の皇室に流れており、貞明皇后を通じて九条の血も同じである。制度が作った縁が、制度が消えたあとも系図の上に残っている。

図の読み方

三本の根は、公家・薩摩・佐賀という出自の違う三つの家である。江戸までなら、この三本が皇室で交わることはなかった。交わらせたのは血の力ではなく、華族令という一つの法である。

系図は血の記録に見えるが、誰と誰が結婚できるかを決めるのは、たいていその時代の制度のほうである。摂家から后を出す型が千年続いたのも、血がそう決めていたからではなく、そう決めた仕組みが千年もったからである。仕組みが変われば、系図の形もその代から変わる。この三本の根が交わったのは、華族令から敗戦までの六十年ほどのあいだだけである。