一七二五年から一七六二年までの三十七年に、ロシアの帝位は六人のあいだを移った。そのうち四人が女性である。血筋の順ではなく、近衛連隊がどちらに付くかで皇帝が決まった時代であった。
ロマノフ家は一六一三年、動乱の時代のあとにミハイルが選ばれて始まった。四代目のアレクセイには、先妻ミロスラフスカヤの生んだ子と、後妻ナルイシキナの生んだ子がいる。この二つの腹の対立が、以後の混乱の下地になった。
アレクセイの死後、先妻の子フョードル三世が継いで若くして没する。残ったのは、先妻の子で病弱なイヴァンと、後妻の子でまだ十歳のピョートルであった。銃兵隊の蜂起を経て、二人はそろってツァーリに立てられ、イヴァンの姉ソフィアが摂政となる。玉座は二人がけで作られ、背後にはソフィアが助言を囁くための穴があったと伝えられる。
一六八九年、ピョートルはソフィアを修道院へ押し込めて実権を握った。イヴァン五世は一六九六年に没している。
ピョートル一世は最初の妻エヴドキヤとのあいだにアレクセイをもうけた。父の改革に馴染まず、周りには古い秩序を望む者が集まる。アレクセイは国外へ逃げ、連れ戻されて取り調べを受け、一七一八年に獄中で没した。
ピョートルは一七二二年、皇帝が後継を指名できるとする継承法を定める。長子が継ぐという決まりを捨てたのである。ところが本人は、一七二五年に死ぬまで誰の名も書き残さなかった。決める仕組みだけが残り、決めるべき人がいなくなった。
空いた席を誰が埋めるかを実際に決めたのは、ピョートルが作った近衛のプレオブラジェンスキー連隊とセミョーノフスキー連隊であった。宮殿は都の中にあり、連隊も都の中にいる。夜のうちに兵舎を訪ね、兵に酒と約束を配り、明け方に宮殿へ向かえば帝位が動く。
エリザヴェータには子がなく、跡継ぎに姉アンナ・ペトロヴナの子を呼び寄せた。ホルシュタイン=ゴットルプ公の子で、ドイツで育ったピョートル三世である。その妃に選ばれたのが、のちのエカチェリーナ二世であった。
ピョートル三世は即位から半年で、妃と近衛兵によって退けられ、まもなく殺された。エカチェリーナ二世はロシアの血を一滴も引いていない。それでも三十四年のあいだ帝位にあり、領土を広げてロシアを列強の一つにした。
家系図で見ると、ロマノフ家の男系はピョートル二世で切れている。以後の皇帝はアンナ・ペトロヴナを通じてピョートル一世につながる女系であり、家としてはホルシュタイン=ゴットルプ家である。それでも彼らはロマノフを名乗り続けた。名乗りを変えなかったのは、家名が土地や条約と結びついていたからでもある。
エカチェリーナ二世の子パーヴェル一世は一七九七年、男子を優先する継承法を定めた。皇帝が気ままに指名する制度をやめ、順位を法で固定したのである。母の即位を認めない気持ちも働いていた。女帝の世紀は、次の女帝が出ないようにする法で締めくくられたことになる。この法のもとで、ロマノフ家は一九一七年まで続いた。
廃されたイヴァン六世のその後が、この時代のありようをよく示している。一歳で位を追われ、家族と引き離され、名を隠されて要塞に閉じ込められた。読み書きも十分に教えられず、自分が何者かも知らされない。エカチェリーナ二世の代に、彼を担ぎ出そうとした士官が現れると、看守はあらかじめの指示どおりその場で彼を殺した。二十三歳であった。
血筋が正統を与えるということは、その血筋を持つ者が生きているだけで危険になるということでもある。
十八世紀のロシアで、皇帝の座が誰のものかを決めたのは家系図ではなかった。それでも家系図は要る。誰を担ぎ出せるかを知るために、宮廷の人々はこの図を見ていた。